円満な婚約破棄と一流タンクを目指す伯爵令嬢の物語
「あの色男が山猿の婚約者か」
 キースが閉められた扉を見つめながらつぶやいた。

「ああ、ええっと、彼はレイナード様といって、ステーシアさんの婚約者で、この国の王太子殿下です」
 ルシードが戸惑いながら答える。

「婚約破棄寸前って聞いていたけど、そうは見えなかったな。どっちかって言うと溺愛されてるじゃねーか」

 くつくつと笑うキースの様子をじっと見つめながら、確かにあの二人は婚約破棄する見込みだという噂があったのだが、長期休暇が終わってみたら仲直りしていて、今では周りが引くほどラブラブだとルシードは説明した。

「大きくなったな、ルシード」

 唐突にそう言われて、ルシードはさらに戸惑ってしまった。
 今朝、登校した途端に待ち構えていたレイナード殿下に連れ去られるように馬車に乗せられ、その中で「君のお兄さんが見つかった」「大怪我をして意識不明の状態でビルハイム邸に担ぎ込まれたらしい」と矢継ぎ早に説明されたものの、気持ちの整理がつかないままここに来たのだ。

 死んだわけではないとわかってホッとした一方で、冷静になると本当にこの人が兄なのか、別れた時の記憶が全くない自分には判断がつかない。
 たしかに、外見は酷似していると思うけれど…。

「ごめんなさい。正直に言うと、僕、何も覚えていなくて…いつも僕のことを守ってくれた優しくて強い兄さんがいたっていう記憶がうっすらあるだけなんです。僕は、あなたの弟のルシードで間違いないですか?」  

「俺の弟なんだとしたら、左肩にほかより大きいホクロがあって、つむじは2つあるはずだ」

 当たってる。
 じゃあ、やっぱり――。

「僕は、あなたのことを当時どういう風に呼んでいたんですか?」

 キースは、フッと笑いながら教えてくれた。
「キースお兄ちゃんって言ってたな」

「キースお兄ちゃん、久しぶり」
 
 視界が涙で滲んでいく。
 キースの目も赤くなり、涙をためているようにも見えたけれど、自分のあふれる涙を拭うためにメガネを外してしまったから、よくわからなかった。

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