【仮】イクツニナッテモ
・密事はいつから
『ねえちょっと聞いて?第一印象はあり得ないほど最悪だったのよー』
なんて会話、恋愛真っ只中の女子が発するよくある会話の一端だと思っている。私は“かつて”その言葉をよく耳にした気がする、聞かされたというべきかな。
時にはそれが文句という『仮の姿』で、実は自慢だったりすることもよく知ってる。私には彼が居るのよ、どう?それだけでも貴女とは違うの、なんて意味で…。
そんな人とは恋なんて絶対あり得ないって、勝手に遮断、終了してしまう子も居たが。でも実際は疑わしいものだと思った。
まだ大して深くもないつき合い始めが最悪という底辺なのだから、考え方次第では後は浮上するだけ。今後見えてくるのは良いところばかりかもしれないってことだ。
…もし、もしもだ。そこであっさりともう駄目だと止めてしまわず、少し興味を持って先に発展した場合、見えてくるのは良い面、という、これまた『罠』だ。その罠にまんまと陥れられてしまうんだ。その後、上手くいったか駄目だったかは…結果次第でこれも言いようだ。良い結果なら、最初は印象が悪い方が良いのよ、なんてね、言って見せて。逆に結果が悪ければ…。ほら見たことかってね。やっぱり駄目だったで済ませられる。立ち直る為には次の恋よ!なんて…本気度を確かめたくなる程、恋愛エネルギーは底知れない、尽きることのない塊だ。でもそこは人によっては、としておこう。
何故こんな…今の自分にはあり得ない『昔の日常』を思い出していたか…。
ある人物に接して綺麗な心なるものを少し掘り起こしたからだ。『誠実』、それが私が受けた彼の第一印象だ。
炎を前にしていなくても厨房は熱のこもった場所だ。その熱の直ぐ横だから、洗い場は相当に暑いはずだ。
入店時には表から入って声を掛けて欲しいということだったから、私はお客様同様店に入り、目に入ったレジで声を掛けた。
そして、長い暖簾をたくし上げてくれた従業員に頭を下げ、ここに居た。
暖簾をくぐった先、レジの裏は細長い厨房だった。居場所に戸惑いながら壁により、店長を待っていた。居場所同様、目線の行き場もない。うつむき加減で居たが、何となく音のする方に目を向けた。
音を発している源、洗い場に居たその男性は中肉の背の高い人だった。黒いシャツ、黒いズボン…黒いエプロン。この店の決まり、制服だろう。全身黒ずくめだった。汗を浮かべた額を拭うこともなく、運ばれてきた食器を引き寄せ黙々と洗っていた。全く手を止めることはなく淡々と作業をこなしていた。気がつけば顔をこちらに向けていた。あっ、途端に気まずくなった私は目が泳いだ。
「今晩は!お疲れ様です。猛家さんですよね」
「あ、は、はい。お疲れ様です。…あの、今日は短い時間ですが宜しくお願いします」
驚いてしまった。動揺も半端なかった。話しかけられるなんて思ってもいなかったからだ。忙しいのにごめんなさい。こっちはちょっとボーッとしてて不意をつかれた感じになった。こんな私ですが宜しくお願いしますです。それにしても、今日は私だけなのだろうか?名前を把握されてるなんて…。思いもよらなかった。
「こちらこそです。きちんとされてますね、時間前に来られて。店長、今、接客で。直ぐ戻って来るんで、もう少し待っててくださいね」
「はい、有り難うございます…」
キョロキョロしていると分かってくることもあった。私の居る場所は配膳のための通路でもあるようだ。ここに居ても邪魔にはならないだろうか。まあ、居てくれというのだから居れば良いのだ。
勢い良く吹き出される水。ゴトンゴトンと水の中でプラスチックの容器が当たる音がした。
彼の手はそれ以降も一度も止まることはなかった。