ロゼに溺れた熱帯魚
ロゼに溺れた熱帯魚
 萌奈は新たにシェフが焼き上げた肉厚のアグー豚が、シェフの華麗なテクニックで鉄板の上で切り分けられていく様を眺めていた。切られると待っていたように中から肉汁が溢れ出て、鉄板でじゅわっと蒸発する。
 哲と居ると二人で交わした途方もないやり取りが次から次へと浮かんでくる。甘くて切ない感情とほろ苦い後味。

 「急に会いに来て……私が素っ気なくするとは考えなかった?」
 哲はあの時、気持ちはどうであれ、萌奈を切った。普通ならフラれた相手に会いたくないと思うし、振った方だって顔は合わせたくないと思うのではないだろうか。
 先ほどから焼かれていたじゃがいもと人参を添えて出されたアグー豚。シェフが皿を二枚差し出すので、哲が受け取り二人の前に並べた。
「ダメなら偶然を装って挨拶して帰るパターン。『あ、久しぶり。俺もたまたま沖縄に来ててさ』なんて言ったりして。でも、萌奈さんは俺を見て、ベルマンに荷物を運んでおくように言っただろ? 俺と話すつもりでさ」
 萌奈は言われてから初めて自分が確かに哲を受け入れ、話すつもりになっていた事に気づかされた。余りに自然すぎて思い至らない程、唐突に現れた哲をいとも簡単に受け入れていた。なんだかそれは少しばかり癪だった。だから、不満のため息を吐く。すると哲が笑いを噛み殺しながら肩を揺らす。
「怒らないで。正直に言えば、俺はあれで救われたんだから。嬉しかったよ」
「そう言うのズルい。好きだった私の気持ちを知っていて嬉しかったとか」
 本気で腹を立てていた。萌奈は本当に哲を好きだったのだから、嬉しかったなどと言われて拒否するのは難しい。馬鹿みたいに直感で喜んでしまう。年甲斐もなく耳が熱い。
「せやね」
 普段は使わない関西弁をここで使うのもズルい。それだって好きなのだから。
「知っていてやってるでしょ?」
「せやで。好きやから。我慢できへんし」
 ズルいんだからと小さく呟く。それからチラッと横目で哲をうかがってから続ける。
「関西弁はやめて。対等で居たいから。私ばっかり好きなのは困る」
 哲は笑って「俺だって必死なんだ。追い返されたくないからさ」と、標準語の関西訛りで優しく反論するのだった。

 今回だけはと言う約束で哲はディナーを割り勘ではなく、哲の部屋に全部つけた。次からは割り勘でと萌奈が言えば否定はせず目だけで微笑んでみせた。
 まだ瓶に残るロゼを貰って店を出た。一階のカウンターを経由し鍵を受け取り、二人は七階の萌奈の借りたツインに向かう。その廊下から吹き抜けになっているロビーが見渡せた。クリスマスツリーを彩る赤色の電飾の玉《クゲール》が夜にぼんやりと浮かんで幻想的だった。まるでロゼに落とされたように、辺りをほんのり赤く染め、玉《クゲール》は立ち上っていく泡のよう。

 部屋に二人で入ると、哲の唇がそっと萌奈の首筋へ当てられる。ゾクッと身体の芯が震えて、波紋の如く隅々まで行き渡る。
 持ち主を待ってシャキッと立っていたスーツケースの前を過ぎ、綺麗に整えられたベッドの手前で萌奈が足を止め、隣に立つ哲を見上げた。問うように瞳を覗けば、同じように物言いたげに哲が見つめ返してくる。
「結末は苦いかもしれないけど」
「うん」
「それでもいいの? 奥さんと上手くいっているんでしょ?」
 哲はいつでも柔らかく笑って、否定しない。返事の変わりに持っていたワインボトルを少し離れたテーブルの置き、萌奈の元へと戻ってくる前に部屋の灯りを絞った。すうっと光が吸い込まれたようになり、暗くなる室内。開けっ放しのカーテンの向こうはプライベートビーチ。砂浜に赤い道標のライトが灯されている。点々と、縁取られた入江。月が主役を奪われて、さざめく海を黙って照らす。

 戻ってきた哲に遮られ、海は見えなくなった。変わりに萌奈の指先が哲のボタンをなぞったのを、萌奈はどこか他人事のように見ていた。哲にこの手で触れられる。当たり前の事が不思議に思えて、ボタンから哲の手首に指を移動させると、温もりと規則正しい脈の振動。顔を上げると哲が待っていたように身を屈めた。初めて重なった唇は少しばかりロゼの味がした。渋味と酸味、熱い口腔。息苦しさも、熱されて沸点目指して駆け巡る血液も、何もかも幸福だった。
 あの日感じた息苦しさは悲しみだった。あの日感じた血流はどこまでも冷えきっていた。切なさと冷たさに涙した夜。今まるで正反対のところに居るのが嘘のようで、哲の存在を確かめようとシャツを捲り上げて地肌に指を這わせていく。
 哲はチノパンのポケットから財布を取り出しながら、キスをする。二つ折りの財布から取り出された避妊具を、萌奈は哲の手ごと掴んだ。
「したくない。やっと直接触れられるのに」
 哲は動きを止め、二人の間にあるそれを見下ろしてから、問うように萌奈を見つめる。子供じゃない。だから、それがどのような結果を生み出すのか、どちらも分かっていた。
「じゃあ、しない……外に出すよ」
 明言しない哲らしい意思表示。萌奈も返事の代わりに、哲の指の間からビニールに包まれた避妊具を抜き取り、ポンと部屋のどこかへ放り投げた。

 深まるキスや、淫らな指使いに踊る熱帯魚。吸い込んだ息はアルコールに犯されていて、沸騰したように熱く、溺れそうだった。
 リスクを承知して哲が萌奈の中に直接入ってきた時、萌奈は満足と言う名の甘い泡を放つ。それはきっと赤い玉《クゲール》。

 もしも、小さな可能性が現実になったら、どうするのだろうか。
 対等に二人とも離婚するのか、しないのか。離婚したら、その後はどうなるのだろう。
 曖昧なまま、二人は深く繋がっていく。
 子供が歌う舌ったらずな歌を、哲が引き受け、萌奈も口ずさむかもしれない。そんな幻想がチラリと浮かんだのは萌奈だけではないはずだ。

 ロゼに溺れた二人には、先のことなどわからない。今はただひたすらにユラユラと漂うだけ。


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