崖っぷち王子、妻を雇う


休憩がてら木陰で着替えをして、ロンデに跨り更に数刻……。

レインフォール伯爵別邸はカレンザ街道沿いにあるケルシェという小さな村のはずれにあった。

ロウグ大臣に別邸の場所を聞いていなければうっかり見落とすところであった。

突然の訪問にも関わらず、レインフォール伯爵別邸の使用人は嫌な顔せずラルフを客間に通してくれた。

淀みがない動きからして明らかに訪問客が突然やって来ることに慣れている。どうやって面会の許可をもらおうかと苦心していたラルフは少し拍子抜けした。

(それにしても……)

ラルフは案内された客間の中をまじまじと見回し……驚いた。

床の上、窓枠のどこにも埃は見当たらず、掃除が隅々まで行き届いている。つまり、使用人の仕事が徹底されているということである。

チェストの上にさりげなく花瓶に飾られている花はどれもこの近くに自生している植物ではない。わざわざレジランカから買い付けられているようだ。

もちろん客間にある調度品は玉石街でもそうそうお目にかかれない一級品である。流行遅れな上に何度も修理を重ねている離宮にあるオンボロよりも上等であることは間違いない。

歓待は人間だけでなく馬にも及んでいた。

ロンデは別邸に着くやいなや厩番に連れて行かれ、主人より先に清潔な厩舎で水と干し草にありついていた。

別邸の一部分を取り上げただけで十分レインフォール伯爵家の懐具合と人望の篤さを窺い知ることができた。

もしこれが伯爵本人ではなく伯爵令嬢の手によるものならば、彼女は噂通りの傑物に違いなさそうだった。

「大変お待たせ致しました。お嬢様がお会いになるそうです」

調度品の値踏みとソファの座り心地の良さにも飽きたころにようやく侍女がラルフを呼びにやって来た。

(さて……鬼が出るか蛇が出るか)

ラルフは戦々恐々としながら伯爵令嬢の姿に目を凝らした。

逆光の中で見えたほっそりとしたシルエットは、ある意味で鬼よりも恐ろしいものだった。

「初めまして、ラルフレッド殿下。(わたくし)がレインフォール伯爵の長女マリナラ・レインフォールでございます」

瞳と同じ淡いブルーのドレスを着こなしたマリナラと名乗る女性はラルフに対して恭しく頭を下げた。

サラリと流れた黒髪の美しさに、ラルフははっと目を見張った。

ロウグ大臣から聞いた話から自分と同年齢だとばかり思い込んですっかり油断していた。

レインフォール伯爵令嬢はラルフの想像以上にずっと若く……美しかった。

しばしマリナラに見惚れていたラルフだったが、我に返ると途端に冷や汗をかいた。

「……なぜ私がラルフレッドだと?」

取次ぎを頼んだ際ロウグ大臣の紹介で来たと伝えただけで、ラルフは自ら素性を明らかにしていなかった。

マリナラは鈴を震わせたような軽やかな声色で答えた。

「我が屋の厩番が教えてくれました。服装は変えられても愛馬までは変えられませぬ。我が家に20年務める厩番が素晴らしい青毛の馬だと褒め称えておりました」

ラルフは思わず舌を巻いた。

(なるほど、これは確かに一筋縄ではいきそうにないな……)

毛色で乗り主を当てるなど、よほど情報収集能力に長けていなければできない芸当である。

おそらくケルシェ村に立ち入った時点から目をつけられていたのだろう。

使用人だけでなく村人までも完全に掌握するその手腕には脱帽である。

そもそもレジランカ騎士団団長であるラルフを出し抜こうなど普通は考えない。

ラルフは素直に負けを認めると同時に腹を決めた。

「正直に名乗らず失礼した。私はラルフレッド・リンデルワーグと申す。貴方に相談したいことがあって参りました」

「はい、窺いましょう。どうぞおかけになって」

相談する者と、相談される者。勝者と敗者の上下関係は既にはっきりしていた。マリナラは余裕の表情でラルフにソファをすすめた。
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