愛が痺れた
そんな、ある日の夜。後片付けを終え、濡れた手を拭きながらふと見ると。なぜか健太さんが正座をして、深刻な面持ちでじっとこちらを見ていた。
「え、なんです?」
首を傾げると、彼は表情を変えないまま手招きする。素直にそれに従い、彼に倣って正座をした。が、話は切り出されない。いつまで待っても切り出されない。
「……ええと、健太さん?」
「……」
「……何事ですか?」
「……、……」
何か言いたいことがあるのは分かる。時たま短い黒髪を混ぜるように掻き、「すう」と息を吸っては「はあ」と吐きを繰り返し、視線をふわふわとさ迷わせる。その目は瞳孔が開いていて、心なしか頬も耳も赤い。数十秒に一度鼻の穴もぴくぴく動いている。そんな様子で「すう」「はあ」「はす」「はす」を繰り返しているから、はたから見たら不審者だ。
市内の人気レストランのメインシェフで、コックコート姿は爽やかで、大人の色気もありつつ、でも犬のような愛嬌のある顔立ちをしていて、たまに地元のテレビや雑誌の取材も受けている「イケメンシェフ」が。普段の様子からは想像もできないほど、変わり果てた姿になっている。
「健太さん……」
もう二十分は経つよ、足が痺れてきたよ、と言いかけたところでようやく「あっ」と、彼が発言した。
「あ?」
「け、っ」
「け?」
「……っ、……っ、……、……」
「……」
救急車とまではいかなくても、共通の友人だとか、彼の店の店長さんを呼んで、診てもらったほうがいいだろうか。
こんなに「すう」「はあ」「はす」「はす」されたら、こっちまで呼吸がおかしくなりそうだ。はすはす。
「あ、あの……さ、ぼ、ぼく、とけ、けけ……っ、」
「毛?」
「けけっ、けこっ……」
「……」
ああ、そうか、分かった。彼が言いたいことが。彼がどうして瞳孔を開いて、頬を赤くし、「すう」「はあ」「はす」「はす」と奇妙な呼吸をしているのか。女の勘は鋭いと言うけれど、これでは鈍くても分かるだろう。