紫陽花
村上慎二

0時を過ぎる頃やっと家に着いた。鍵をポケットから取り出す。
いっそこのままどこかに行くか迷う。
だがそんな事は考えても無駄だ。家の鍵を開けて中に入った途端に妻の罵声が降り注ぐ。「貴方ねぇ、何時だと思ってんの!遅い!!私はずっと待ってたのよ!!」

結婚して3年。親に頼むから結婚してくれと言われて家族ぐるみで仲良しだった妻と籍を入れた。
「…仕事が多くて残業になるから先に寝てて良いって連絡したよな?」「また仕事!?ほんとに仕事なの!?浮気してるんじゃないの!?」また怒っている。

「違うよ」と言いながらジャケットを脱ぎ手を洗う。毎日のようにこのやり取りをしている。浮気なんてしていない。今まで本当に好きになった人は居なかった。物心ついたころから女に困ったことは無かった。どんどん女が寄ってるからだ。

「ごはん作って待っててくれたんだろ?一緒に食べよう」「…うん。食べる!」いくら仕事だと説明しても理解されないのは分かりきっているので、話をそらした。今日のメニューは何だろう。昨日はステーキだった。肉のみで付け合わせは何も無い。焼き過ぎて硬くなっていた。妻は本当に料理が下手だ。だがそれを指摘すると怒るので注意することを止めた。家の中でまで話し合いなんてしたくない。「今日は疲れたから地下で買っちゃった。コロッケ丼だよ!」コロッケがご飯の上にのっている。ネーミング通りだ。この夕食は当たりだ。お惣菜の方が旨い。「いただきます」食べるとすぐに妻は職場の同僚の噂話、客の悪口を聞いてもいないのにペラペラ話し出すり。専業主婦でも良いと言ったが妻は働きたがった。仕事は楽しいようだ。だが妻の話などはっきり言ってどうでも良かった。

普段から他人に興味は無い。妻というポジションにいる女性の話だから仕方なく聞いているのだ。それに今日は朝から気になる事がありいつもより疲れていた。「そうなのか」「大変だったな」適当に相槌を打ちつつコロッケ丼をひたすら口に運ぶ。
「ごちそうさま」と言うと「食べるの早い!!まって!お風呂一緒に入ろうよ」と慌てて言われたが、無視してシャワーを浴びに向かった。風呂場の横の洗濯機が目に入った。溜まっている洗濯物。タオルなんて出ていなくて当たり前だ。タオルや下着の準備をして、自分の脱いだものを洗濯機に投げ入れ、スイッチを押す。
シャワーを浴びていると「一緒に入って良いよね?」妻が少し甘えた声で言ってきた。「すまない、疲れてるんだ」と答えると「また?別に良いじゃない」と少し悲しそうに、でも怒っている。めんどうだ。
一緒にお風呂に入るのは、その後セックスをすることのサインだった。妻の事を好きでは無かったし、そういう行為も好きでは無かった。10代のうちにやりすぎてしまったのか、性欲が湧かない。
新婚早々にレスになると「1ヶ月に一度は一緒にお風呂入って、そのあとしたい。」と泣かれてしまった。約束を守らなければ離婚すると。離婚しても自分自身は良いのだが、妻とは政略結婚に近い形で結婚したためすぐに離婚する訳にもいかなかった。

ふと松村美咲の事を思い出した。華やかな女性が多い職場だが、彼女はどちらかと言えば地味だった。胸の大きさで入社当初は少し話題になっていたくらいでその後は目立つ事も無かった。最近、イケメンで人気者の柴田と付き合った事で目立ち始めたが。面接の時、彼女は優秀なのだろうとすぐ分かった。しかし自信が無さすぎる。昨日ちょっとしたミスをしたことで落ち込んでいるようだが、彼女の普段の仕事での評価に影響はしないだろう。

2年前、給湯室で1人涙を流しているのを見てから気になっていた。周りにいる女性たちは注意したらすぐ人前で泣く。松村は人に弱みを見せたくないというより、心配や迷惑をかけたくないタイプなのだろう。仕事への真摯な態度、さらには周りへの気遣い。評価されているのになぜあんなに自信が無いのか理解出来ない。

この後ベッドで待っているのが松村だったらどんなに良いかという考えが頭をよぎった。裸で恥ずかしそうに布団にくるまって背を向けている。後ろから抱きしめてからゆっくりとこっちを向かせてキスをする。それから…下半身が熱くなり我に返った。自分は変態なのか。こんな妄想をしてしまう相手は松村だけだ。これが恋というものなのか。いやそんなはずは無い。それに松村には恋人がいるじゃないか。2人が付き合ったという話を小耳に挟んだ時はなぜか少しショックだった。色々と考えていたが、こんな事で悩むなんて時間の無駄だ。自分らしくない。
風呂から出て寝室へ向かうと妻は先に寝ていた。本当はお風呂はとっくに入っていて眠かったのに俺を待っていたのだ。罪悪感もあったが、先に寝てくれていた事に安堵する気持ちの方が強かった。
< 3 / 9 >

この作品をシェア

pagetop