揺れる夾竹桃
本田美咲希 がプールの鍵を開ける頃、日光はますます鋭さを増していた。みんなが出勤する前のガランとした事務所はジメジメとして、エアコンが効くまでの間にプールの水質検査をする。その値によって塩素やPH調整剤を投入、さらに電気や更衣室等の点検。1人の間に済ますルーティーンだ。それが終わる頃少しずつみんなが出勤してくる。いつもと変わらない日常。違うのは私の気分だけだ。
「おはようございます。」
「おはよう。」
「おはよっすー。」
「はよざーす。」
いつもの通り出勤するスタッフたちを見て、しっかりと気持ちを切り替えた。仕事は仕事、きちんと責任を持ってこなしていこう。それぞれがオープン前の準備をする中、唯一の上司である所長に備品の補充について相談した。所長は基本的に全て私に任せてくれているが、一応確認を怠らないようにしている。リスクマネジメントは私の生き方そのものだ。おおらかでみんなのおじいちゃん的存在である所長は今日も簡単な確認だけでOKを出した。テキパキと注文表を纏めているところにあどけない声が飛び込んできた。
「本田さーん助けて〜第二の水出ない!」
第二とは第二プールのことだ。声の主である彼女が水出しの確認をしたところ不具合があったようだ。
「んーたぶんバルブ締めてあるんじゃないかな?」
「バルブ?」
「うん、昨日点検があったでしょ?第二はその時から締めてると思うから開けてみて。」
「場所わかんない!どこにあります?」
「ボイラー室の横の…まぁおいで」
「ありがとう!」
天真爛漫という言葉がぴったりの彼女は横山夏海。21歳になったばかりのかわいい女の子でとても慕ってくれている。甘えたがりのところはあるが、いつも明るく嫌味のない真っ直ぐな性格なので私にとって癒やしの存在だ。バルブの位置と細かい調整を一通り説明し終えて戻る時、彼女がいつもの調子で言う。
「本田さんまたごはん連れてってよー。」
「夫の予定がまだわからないからなぁ。また行けそうな日あったら言うよ。」
「そっかー。でもそれとは関係なくたまにはごはん用意するの休憩したらどうです?旦那さんも子どもじゃないんだし。」
少し拗ねたような表情の横山さんの可愛さは女の私でもキュンとくる。
「それはそうだけど、やっぱり毎日お仕事頑張ってくれてるしごはんぐらいはしないとね。」
「偉いなー本田さん。すごいよホントに!私が結婚したいぐらい。たまには息抜きしてね!」
彼女なりの優しさが嬉しかったが、私は自分の中にある嫌な感情を無視できなかった。どうしても若さ故のシンプルな思考が羨ましいのだ。こんないい子に慕われておいて自分勝手な感情を抱いてしまう、自分の心の荒み具合に吐き気がした。そんなふうに思ってしまっていることを彼女に知られるわけにはいかない。確かめるように彼女にちらと目をやった時、なんとなく違和感を覚えた。それが何かと言われると難しいが、いつもの横山さんと何かが違う気がするのだ。何も言わない方がいいかとも思いつつ、思い切って聞いてみることにした。
「 ねぇ横山さん、何かあった?」
彼女はえっと驚いてこちらを見た。曇りのない大きな目を更に大きくして明らかに戸惑いを見せている。
「あー…ははは。本田さんエスパーですよもう。すいません態度に出てましたよね。仕事は楽しいから元気になると思ったんですけど…すいません。」
「ううん、謝らないで。何があったの?」
「いやまぁありきたりなやつです。彼氏と別れちゃったっていう…。」
「そっか…けっこう長かったもんね、つらいよね。」
「そうですね。でも最近はもう終わっちゃいそうな感じだったんでやっぱりって感じもあって。」
確かに彼女の言うように若い頃の失恋の痛みはありきたりではあるが、実際経験した本人からするとつらいものだ。まだ21歳の女の子が一生懸命表に出さないようにしていると思うと健気で手を差し伸べてあげたくなった。そして同時にまわりの男の子がほっとかないだろうなとも思った。整った顔立ちに白くしなやかな指、華奢な肩にかかる栗色の髪はハリがあってみずみずしい。そのうえ素直で明るくいつも笑顔でこの職場でもみんなから好かれている。私が持っていないものを彼女は全て持っているのだ。いや最早40を迎える自分と比べてしまっている事実すら恥でしかない。
ポツリポツリと話を聞きながら事務所に戻り、近いうちにごはんに行くことを約束してそれぞれ業務に就いた。
失恋…
もう少し若い頃ならもっと共感していっしょに悲しむこともできただろう。だが私は失恋したときの感情をずいぶん昔に忘れてしまった。そもそも夫のことは好きで愛しているが、今恋をしているかと言われるとピンと来ない。そこはおそらく夫も同じだろう。世間の夫婦もそんなものなんだろうか。あるいは子どもがいるかどうかでも変わるんだろうか。
子ども…
自分の頭の中で勝手に出た単語のくせに、またしても頭痛が襲いかかる。仕事中にも関わらず自分が自分でなくなりそうで怖かった。ダメだ、徐々にお客さんも増えてきた。しっかりしなければ。
その日は割と忙しく、スタッフへの指示出しにお客さんへの対応、さらに本社のエリアマネージャーとのミーティングもあり、午前中だけでかなり消耗した。だが今はそれくらいがちょうどいい。病みの反対は忙しいだなと思いながらようやく昼の休憩を迎えた。ここでの昼休憩は時間をずらして数人ずつとっている。今日は他に誰とだったかシフトに目をやると所長ともう1人の名前が目に入った。
あー
実はこの職場にも悩みの種はある。大人気ないと思いつつ正直私は彼に終始イライラしている。数カ月前にここへ来たばかりにも関わらず業務をさらっとこなすのはありがたいのだが、14歳も下のくせに常に言動が私を見下しているのだ。偉そうというよりは小馬鹿にして楽しむような1番苦手な人種である。コンビニで買っておいた昼食を持ち、休憩室に入るとすでに所長と彼が談笑していた。私に気づいた所長がにこやかに言う。
「本田さんお疲れ様、ごめんね、先に真城くんと休憩させてもらってるよ。」
「いえいえお気になさらず、ちょっとキリのいいとこまでやりたくて私が遅れただけなので。」
所長がいてくれて良かった。2人になるとまたすぐ言い合いになってしまう。と言っても大体私が感情的になるだけだが。
「今真城くんと恋の話をしててね、いやつい喋りすぎてしまったよ。」
照れくさそうに所長が笑う。私はサンドイッチを開封しつつ2人の話題の意外性に驚いた。
「へぇーいいですね恋の話。私も所長の恋愛聞きたいです」
「いやいやもう喋りすぎちゃったよ、年甲斐もなく恥ずかしい。それより真城くんの話がおもしろくてね、今の若い子はインターネットで恋愛したりするんだって。」
所長にどういう話をしてるんだこの子は。
「あぁー若い子は普通らしいですね。」
私が他人事のようにつぶやくと彼はクスクスと笑った。この目、この笑い方だ。終始小馬鹿にしたような飄々とした態度。いちいちイラッときてしまう。
「はぁ…またそうやって馬鹿にして。」
ため息まじりに思わず声に出てしまった。今日は所長もいるというのに。
「してないって。本田さんおもしろいなーと思っただけ。」
小柄で色白、プラチナホワイトのショートボブの髪の奥から人を喰ったような瞳が覗く。人形のように整った中性的な顔は1度目にしたら忘れられないだろう。実際初めて会った時私は疑いもせず女の子だと思ってしまった。しかしよく見ると手は骨張っているし、見た目と対照的な深みのある低い声をしている。モデルでもした方がいいんじゃないかと思う程のルックスで、真城七瀬がなぜこんな職場に来たのかは謎だった。
「それを馬鹿にしてるって言うのよ。」
このやりとりも何度目だろう。ため息ばかりの私と掴みどころのない真城を見て所長がなだめる。
「まあまあ。真城くんまだ若いから。もう少しすれば本田さんがいかにすごい人かだんだんわかってくるよ。仲良く仲良く。」
「すみません所長。」
大人な対応で場を収める所長に頭が下がる。サンドイッチを食べきり、ブラックの缶コーヒーを開けた。
「本田さんはみんなが見えないところで色々支えてくれてるからね。それにさっきの恋愛の話じゃないけど、彼女は一途に旦那さんを思い続けてて家庭のこともしっかり支えてる。なかなかできることじゃないよ。」
所長からのべた褒めを受け、思わず食ってかかる。
「ほーらね、聞いた?わかったらちゃんと私にも敬語使いなさい。」
「えー恋愛がしっかりしてるかなんてわかんないじゃん。」
なぜこの子はこうもイラつかせてくるのか。いや私がいちいちイラつかなければいい話なのはわかっているが。横山さんの素直さが少しでもこの子にあればいいのに。すると所長が諭すように言った。
「真城くんが来るずっと前にね、そう思える出来事があったんだよ。そのときに本田さんは恋愛についてもしっかりしてるって僕は確信したんだ。身近にこんな人格者がいる君は幸せだよ。たくさん学ばせてもらうといい。」
所長は真城にも優しい眼差しを向けている。
「さて、そろそろ僕は戻るけど、ケンカしないようにね」
「はーい。」
真城が口を尖らせる。
「お疲れ様です。」
休憩室のドアが閉まり、静かな空気が包んだ。横並びの2人きりはなんとなくきまずい。真城は棒付きキャンディを咥えながら日報を書き始めた。
「真城。」
「なに?」
「あんたなんで私に突っかかってくんの?なにが気に食わないの?」
私はなるべくイラつきを見せないように疑問を投げかけた。
「そんなつもりないよ。おもしろいだけ。」
こちらに見向きもせず短く軽薄な言葉を並べる。はー。要するに遊んでるだけか。完全に大人をなめきっている。
「あのね、私一応ここではみんなに信頼されてんのよ、あんただけよ馬鹿にしてくるの。」
ふと真城は走らせていたペンを置いた。身体は横を向いたままだったが、見透かしたようなその瞳は確実に私を捉えていた。
「…馬鹿にしてないよ。ただ苦しそうだなとは思ってる。」
予想だにしなかった言葉に思わずキョトンとしてしまう。そんな話してたっけと思いながら考えを巡らせるが、全く意味が理解できなかった。しかし真城は表情を崩すことなく真っ直ぐに私を見ている。まるで心を覗かれているような感覚に陥り、思わず目を逸らした。
「苦しそうってなによ?どういう意味?私何も困ってないよ?」
どうせ意味深に聞こえるようなことを適当に言ってるだけだろう。男というのは心配したがる生き物だ。でもそれを私に向けるだろうか。
「どう見ても本田さん一途じゃないでしょ。」
私は思わず白目を剥いた。やっぱりからかいたかっただけか。少し動揺してしまった自分が恥ずかしい。そりゃ部下から見たら私は仕事人間に映るだろう。しかし夫のことはずっと変わらず愛しているし、他の男に目を向ける程暇ではない。再び深くため息をつき、真城を睨んだ。てっきりまたイタズラっぽく笑っていると思ったが、彼は表情を崩していなかった。
「最近何かあったでしょ。たぶん旦那さんと。女として…傷つくことされたんじゃない?でも周りに吐き出せてる感じもないし、そういうことで傷ついてる自分自身に幻滅してるみたい。」
それまで軽薄と思っていた真城の言葉が刃物のように心を抉った。自分自身に幻滅とは良く言ったもので、ここ最近私が言語化できなかった感情そのものだ。イラつくだけの部下が私の気持ちをさらっと代弁していることが受け入れられなかった。彼はどうしてそんな私に気づいたのだろう。どう考えても適当な言葉を並べてるわけではない。確実に私自身を見ていなければ出ない言葉だ。先程の比ではないほど動揺してしまい、心臓が早鐘のように鳴ってるのがわかった。早く何か言わなければ。なんでもいい、何か…。しかし全く言葉が出てこなかった。
「…っ。」
頭の中がぐるぐる回っている私に対し、真城は相変わらず全く表情を崩さず見つめていた。思わず口元を覆い目を逸らす。せっかく仕事のことで頭を埋めていたのに台無しだ。
「本田さ…」
真城が次の言葉を発しようとした時、休憩室のドアをノックする音が響いた。ドアを少し開けて顔を出したのは横山さんだった。
「真城さん、ちょっと早いけどスライダーの方人手足りなくて、来てくれませんか?この通り!」
彼女は両手を合わせて頭を下げた。
「わかった、すぐ行く。」
「ホント?良かった〜助かります!じゃ待ってますんで!」
そう言うと彼女は嬉しそうに失礼しました〜とドアを閉めた。
「じゃ戻るよ。ごめんねずけずけ踏み込んで。あ、これあげる。」
立ち上がった真城はそう言うとポケットから飴玉を取り出し3個私の手に押し付けた。どうやら常備しているらしい。
「なんかそれ疲れをとる成分入ってるらしいから。たまには休みなよ。」
終始飄々としたまま、真城は仕事へ戻って行った。奇妙な時間を過ごしてしまったと思ったが、不思議と気持ちは少し楽になっていた。横山さんが来た時、この時間が終わってほしくないとさえ思った。私の中のイメージとあまりにかけ離れた彼の言動に動揺が収まらない。生意気さは変わらないが彼は私自身を見ていたし、一応は心配もしてくれたらしい。私自身が受け入れられなかった私の弱さと汚さを見抜いたうえで、私のことを案じてくれている。それを嬉しいと思うのは罪だろうか。少なくともあんなに若い男の子に抱くべき感情ではない。この動揺を「ドキドキ」と呼びたくない、呼んではいけない。落ち着こう。とりあえず飴玉をポケットに突っ込み、コーヒーを飲み干した。
「おはようございます。」
「おはよう。」
「おはよっすー。」
「はよざーす。」
いつもの通り出勤するスタッフたちを見て、しっかりと気持ちを切り替えた。仕事は仕事、きちんと責任を持ってこなしていこう。それぞれがオープン前の準備をする中、唯一の上司である所長に備品の補充について相談した。所長は基本的に全て私に任せてくれているが、一応確認を怠らないようにしている。リスクマネジメントは私の生き方そのものだ。おおらかでみんなのおじいちゃん的存在である所長は今日も簡単な確認だけでOKを出した。テキパキと注文表を纏めているところにあどけない声が飛び込んできた。
「本田さーん助けて〜第二の水出ない!」
第二とは第二プールのことだ。声の主である彼女が水出しの確認をしたところ不具合があったようだ。
「んーたぶんバルブ締めてあるんじゃないかな?」
「バルブ?」
「うん、昨日点検があったでしょ?第二はその時から締めてると思うから開けてみて。」
「場所わかんない!どこにあります?」
「ボイラー室の横の…まぁおいで」
「ありがとう!」
天真爛漫という言葉がぴったりの彼女は横山夏海。21歳になったばかりのかわいい女の子でとても慕ってくれている。甘えたがりのところはあるが、いつも明るく嫌味のない真っ直ぐな性格なので私にとって癒やしの存在だ。バルブの位置と細かい調整を一通り説明し終えて戻る時、彼女がいつもの調子で言う。
「本田さんまたごはん連れてってよー。」
「夫の予定がまだわからないからなぁ。また行けそうな日あったら言うよ。」
「そっかー。でもそれとは関係なくたまにはごはん用意するの休憩したらどうです?旦那さんも子どもじゃないんだし。」
少し拗ねたような表情の横山さんの可愛さは女の私でもキュンとくる。
「それはそうだけど、やっぱり毎日お仕事頑張ってくれてるしごはんぐらいはしないとね。」
「偉いなー本田さん。すごいよホントに!私が結婚したいぐらい。たまには息抜きしてね!」
彼女なりの優しさが嬉しかったが、私は自分の中にある嫌な感情を無視できなかった。どうしても若さ故のシンプルな思考が羨ましいのだ。こんないい子に慕われておいて自分勝手な感情を抱いてしまう、自分の心の荒み具合に吐き気がした。そんなふうに思ってしまっていることを彼女に知られるわけにはいかない。確かめるように彼女にちらと目をやった時、なんとなく違和感を覚えた。それが何かと言われると難しいが、いつもの横山さんと何かが違う気がするのだ。何も言わない方がいいかとも思いつつ、思い切って聞いてみることにした。
「 ねぇ横山さん、何かあった?」
彼女はえっと驚いてこちらを見た。曇りのない大きな目を更に大きくして明らかに戸惑いを見せている。
「あー…ははは。本田さんエスパーですよもう。すいません態度に出てましたよね。仕事は楽しいから元気になると思ったんですけど…すいません。」
「ううん、謝らないで。何があったの?」
「いやまぁありきたりなやつです。彼氏と別れちゃったっていう…。」
「そっか…けっこう長かったもんね、つらいよね。」
「そうですね。でも最近はもう終わっちゃいそうな感じだったんでやっぱりって感じもあって。」
確かに彼女の言うように若い頃の失恋の痛みはありきたりではあるが、実際経験した本人からするとつらいものだ。まだ21歳の女の子が一生懸命表に出さないようにしていると思うと健気で手を差し伸べてあげたくなった。そして同時にまわりの男の子がほっとかないだろうなとも思った。整った顔立ちに白くしなやかな指、華奢な肩にかかる栗色の髪はハリがあってみずみずしい。そのうえ素直で明るくいつも笑顔でこの職場でもみんなから好かれている。私が持っていないものを彼女は全て持っているのだ。いや最早40を迎える自分と比べてしまっている事実すら恥でしかない。
ポツリポツリと話を聞きながら事務所に戻り、近いうちにごはんに行くことを約束してそれぞれ業務に就いた。
失恋…
もう少し若い頃ならもっと共感していっしょに悲しむこともできただろう。だが私は失恋したときの感情をずいぶん昔に忘れてしまった。そもそも夫のことは好きで愛しているが、今恋をしているかと言われるとピンと来ない。そこはおそらく夫も同じだろう。世間の夫婦もそんなものなんだろうか。あるいは子どもがいるかどうかでも変わるんだろうか。
子ども…
自分の頭の中で勝手に出た単語のくせに、またしても頭痛が襲いかかる。仕事中にも関わらず自分が自分でなくなりそうで怖かった。ダメだ、徐々にお客さんも増えてきた。しっかりしなければ。
その日は割と忙しく、スタッフへの指示出しにお客さんへの対応、さらに本社のエリアマネージャーとのミーティングもあり、午前中だけでかなり消耗した。だが今はそれくらいがちょうどいい。病みの反対は忙しいだなと思いながらようやく昼の休憩を迎えた。ここでの昼休憩は時間をずらして数人ずつとっている。今日は他に誰とだったかシフトに目をやると所長ともう1人の名前が目に入った。
あー
実はこの職場にも悩みの種はある。大人気ないと思いつつ正直私は彼に終始イライラしている。数カ月前にここへ来たばかりにも関わらず業務をさらっとこなすのはありがたいのだが、14歳も下のくせに常に言動が私を見下しているのだ。偉そうというよりは小馬鹿にして楽しむような1番苦手な人種である。コンビニで買っておいた昼食を持ち、休憩室に入るとすでに所長と彼が談笑していた。私に気づいた所長がにこやかに言う。
「本田さんお疲れ様、ごめんね、先に真城くんと休憩させてもらってるよ。」
「いえいえお気になさらず、ちょっとキリのいいとこまでやりたくて私が遅れただけなので。」
所長がいてくれて良かった。2人になるとまたすぐ言い合いになってしまう。と言っても大体私が感情的になるだけだが。
「今真城くんと恋の話をしててね、いやつい喋りすぎてしまったよ。」
照れくさそうに所長が笑う。私はサンドイッチを開封しつつ2人の話題の意外性に驚いた。
「へぇーいいですね恋の話。私も所長の恋愛聞きたいです」
「いやいやもう喋りすぎちゃったよ、年甲斐もなく恥ずかしい。それより真城くんの話がおもしろくてね、今の若い子はインターネットで恋愛したりするんだって。」
所長にどういう話をしてるんだこの子は。
「あぁー若い子は普通らしいですね。」
私が他人事のようにつぶやくと彼はクスクスと笑った。この目、この笑い方だ。終始小馬鹿にしたような飄々とした態度。いちいちイラッときてしまう。
「はぁ…またそうやって馬鹿にして。」
ため息まじりに思わず声に出てしまった。今日は所長もいるというのに。
「してないって。本田さんおもしろいなーと思っただけ。」
小柄で色白、プラチナホワイトのショートボブの髪の奥から人を喰ったような瞳が覗く。人形のように整った中性的な顔は1度目にしたら忘れられないだろう。実際初めて会った時私は疑いもせず女の子だと思ってしまった。しかしよく見ると手は骨張っているし、見た目と対照的な深みのある低い声をしている。モデルでもした方がいいんじゃないかと思う程のルックスで、真城七瀬がなぜこんな職場に来たのかは謎だった。
「それを馬鹿にしてるって言うのよ。」
このやりとりも何度目だろう。ため息ばかりの私と掴みどころのない真城を見て所長がなだめる。
「まあまあ。真城くんまだ若いから。もう少しすれば本田さんがいかにすごい人かだんだんわかってくるよ。仲良く仲良く。」
「すみません所長。」
大人な対応で場を収める所長に頭が下がる。サンドイッチを食べきり、ブラックの缶コーヒーを開けた。
「本田さんはみんなが見えないところで色々支えてくれてるからね。それにさっきの恋愛の話じゃないけど、彼女は一途に旦那さんを思い続けてて家庭のこともしっかり支えてる。なかなかできることじゃないよ。」
所長からのべた褒めを受け、思わず食ってかかる。
「ほーらね、聞いた?わかったらちゃんと私にも敬語使いなさい。」
「えー恋愛がしっかりしてるかなんてわかんないじゃん。」
なぜこの子はこうもイラつかせてくるのか。いや私がいちいちイラつかなければいい話なのはわかっているが。横山さんの素直さが少しでもこの子にあればいいのに。すると所長が諭すように言った。
「真城くんが来るずっと前にね、そう思える出来事があったんだよ。そのときに本田さんは恋愛についてもしっかりしてるって僕は確信したんだ。身近にこんな人格者がいる君は幸せだよ。たくさん学ばせてもらうといい。」
所長は真城にも優しい眼差しを向けている。
「さて、そろそろ僕は戻るけど、ケンカしないようにね」
「はーい。」
真城が口を尖らせる。
「お疲れ様です。」
休憩室のドアが閉まり、静かな空気が包んだ。横並びの2人きりはなんとなくきまずい。真城は棒付きキャンディを咥えながら日報を書き始めた。
「真城。」
「なに?」
「あんたなんで私に突っかかってくんの?なにが気に食わないの?」
私はなるべくイラつきを見せないように疑問を投げかけた。
「そんなつもりないよ。おもしろいだけ。」
こちらに見向きもせず短く軽薄な言葉を並べる。はー。要するに遊んでるだけか。完全に大人をなめきっている。
「あのね、私一応ここではみんなに信頼されてんのよ、あんただけよ馬鹿にしてくるの。」
ふと真城は走らせていたペンを置いた。身体は横を向いたままだったが、見透かしたようなその瞳は確実に私を捉えていた。
「…馬鹿にしてないよ。ただ苦しそうだなとは思ってる。」
予想だにしなかった言葉に思わずキョトンとしてしまう。そんな話してたっけと思いながら考えを巡らせるが、全く意味が理解できなかった。しかし真城は表情を崩すことなく真っ直ぐに私を見ている。まるで心を覗かれているような感覚に陥り、思わず目を逸らした。
「苦しそうってなによ?どういう意味?私何も困ってないよ?」
どうせ意味深に聞こえるようなことを適当に言ってるだけだろう。男というのは心配したがる生き物だ。でもそれを私に向けるだろうか。
「どう見ても本田さん一途じゃないでしょ。」
私は思わず白目を剥いた。やっぱりからかいたかっただけか。少し動揺してしまった自分が恥ずかしい。そりゃ部下から見たら私は仕事人間に映るだろう。しかし夫のことはずっと変わらず愛しているし、他の男に目を向ける程暇ではない。再び深くため息をつき、真城を睨んだ。てっきりまたイタズラっぽく笑っていると思ったが、彼は表情を崩していなかった。
「最近何かあったでしょ。たぶん旦那さんと。女として…傷つくことされたんじゃない?でも周りに吐き出せてる感じもないし、そういうことで傷ついてる自分自身に幻滅してるみたい。」
それまで軽薄と思っていた真城の言葉が刃物のように心を抉った。自分自身に幻滅とは良く言ったもので、ここ最近私が言語化できなかった感情そのものだ。イラつくだけの部下が私の気持ちをさらっと代弁していることが受け入れられなかった。彼はどうしてそんな私に気づいたのだろう。どう考えても適当な言葉を並べてるわけではない。確実に私自身を見ていなければ出ない言葉だ。先程の比ではないほど動揺してしまい、心臓が早鐘のように鳴ってるのがわかった。早く何か言わなければ。なんでもいい、何か…。しかし全く言葉が出てこなかった。
「…っ。」
頭の中がぐるぐる回っている私に対し、真城は相変わらず全く表情を崩さず見つめていた。思わず口元を覆い目を逸らす。せっかく仕事のことで頭を埋めていたのに台無しだ。
「本田さ…」
真城が次の言葉を発しようとした時、休憩室のドアをノックする音が響いた。ドアを少し開けて顔を出したのは横山さんだった。
「真城さん、ちょっと早いけどスライダーの方人手足りなくて、来てくれませんか?この通り!」
彼女は両手を合わせて頭を下げた。
「わかった、すぐ行く。」
「ホント?良かった〜助かります!じゃ待ってますんで!」
そう言うと彼女は嬉しそうに失礼しました〜とドアを閉めた。
「じゃ戻るよ。ごめんねずけずけ踏み込んで。あ、これあげる。」
立ち上がった真城はそう言うとポケットから飴玉を取り出し3個私の手に押し付けた。どうやら常備しているらしい。
「なんかそれ疲れをとる成分入ってるらしいから。たまには休みなよ。」
終始飄々としたまま、真城は仕事へ戻って行った。奇妙な時間を過ごしてしまったと思ったが、不思議と気持ちは少し楽になっていた。横山さんが来た時、この時間が終わってほしくないとさえ思った。私の中のイメージとあまりにかけ離れた彼の言動に動揺が収まらない。生意気さは変わらないが彼は私自身を見ていたし、一応は心配もしてくれたらしい。私自身が受け入れられなかった私の弱さと汚さを見抜いたうえで、私のことを案じてくれている。それを嬉しいと思うのは罪だろうか。少なくともあんなに若い男の子に抱くべき感情ではない。この動揺を「ドキドキ」と呼びたくない、呼んではいけない。落ち着こう。とりあえず飴玉をポケットに突っ込み、コーヒーを飲み干した。