揺れる夾竹桃
「お疲れ様です。」
「お疲れ様ー!」
「お疲れ様ですー。」
結局私は午後も仕事に没頭することはできなかった。少しずつスタッフが帰っていく夕方、そして閉館後の夜も真城の言葉、そして瞳が頭から離れない。終わりがけになっても真城が残っていたので、私は思い切って声をかけた。
「真城。」
「なに?」
「悪いけど残業お願いできる?」
なんとなく気まずくて少しぶっきらぼうな言い方をしてしまう。締め作業は大抵1人でこなしているので、今日もできなくはないのだが、今日は真城と話さなければゆっくり眠れる気がしない。彼の言葉をもっと聞きたいと思ったが、それ以上に話を聞いてくれる気がした。もちろんそれを彼に期待するのは完全にエゴで大人気(おとなげ)ないのだが、聞いてくれなくてもそれはそれで良かった。
「いいよ。」
今までにない私の要望に対し驚いた様子もなく理由を聞くこともなく、少し微笑みながら真城は答えた。察していたのかそれとも彼も話をする意思があったのか、あるいは優しさなのか、いずれにせよ私にはそれがありがたかった。この居心地の良さを何という言葉で表すのかわからないが、クセにならないようにしなければという危機感だけは働いていた。
締め作業を始める頃には私と真城以外全員が退勤していたので、最後の雑務を2人で終わらせた。仕事の指示以外会話もせず、真城もいつも通り淡々と仕事をこなしている。しかし全てやり終えた時には少し疲れている様子だった。
「お疲れ様。手伝ってくれてありがと。」
プールサイドのベンチに座る真城に、私は施設内の自販機で買ったピーチソーダを差し出した。真城が甘党でよくこれを飲んでいるのは周知の事実である。
「買ってくれたんだ?ありがとう、これ好き。」
珍しく素直だなと思ったが、元々お礼等はしっかりする子だったと思い出した。普段の性格のせいで誤解してしまう。真城がペットボトルを開けて飲み始めたので、私も右隣に座った。
「本田さん毎日これやってるの?」
「そうだよー。大変だった?」
「大変だった、もう21時だし。こんな遅くまでいるんだね。」
「大体その後軽く泳いでから帰ってるよ。」
「えっすごっ。でもいいな、俺も泳ぎたい。」
「ハハハ。今度水着持っておいで。」
揺らめく水面を眺めながらする他愛のない話が心地良かった。照明をいくつか落として静まりかえったプールは普段の職場と違う顔をしている。真城と会話しているのにストレスにならないどころか、むしろ癒やされている自分がいる。何もかもが非日常な気がして時間がゆっくり流れていると錯覚しそうになった。しかし私はどうしても真城の真意を聞きたかった。これ以上遅くなってもいけないと思い、本題を切り出す。
「真城。」
「なに?」
「私まだだいぶ混乱してるんだけどさっきの言葉どういう意味?」
直球で聞くのは少し怖い気もしたが、遠回しに接するのはなんとなく気が引けた。
「そのままの意味だよ。本田さん普段から自分で自分に言い聞かせてるフシがあったから。しっかりしてる、とか幸せだ、とかね。でも少し前ぐらいから自分を騙せなくなってるような感じ。言い方悪いけど女の顔してるし。となるとたぶん旦那さん絡み…本田さんの性格的に浮気されたとかではないと思うし、勘だけど年齢的に考えて…子どものこと…かな、みたいな。」
最後は気をつかってくれたのか、少し遠慮がちに真城は言葉を発した。この子はどんな人生でどんな経験をしてきたんだろう。ずいぶん歳下のはずなのに、まるで子を諭す親のようだった。しかし私は普段通りの自分でいられなかったという事実が悔しかった。それこそまさに自分を騙せていないということなのだろう。純粋に欲を追えるほど若くないが、精神が成熟しているわけではない。中途半端に冷めた大人になってしまったことを痛感する。こんな空っぽで何もない自分を、真城だけが認めてくれているように感じた。揺れる水面に薄暗い照明が一瞬反射し、きらりと光る。私は全ての力が抜けたような感覚で、おもむろに話し始めた。
「子どもさ…いらないって言われたんだよね。私はずっと欲しかったのに。結婚した時にそういう話しなかった私が悪いんだけどね。だけど…うん…。」
言いようのない絶望感に思わず言葉が詰まる。
「そもそもまず…してないからさ、そういう行為を。お互い忙しいしいつの間にかそういうのも無くなって。もう最後がいつかなんて全然覚えてないもん。」
真城は黙ったままだった。
「あ…ごめんねこんな変な話までして。ちょっと愚痴っただけ、ごめん。」
「変じゃないよ。今、自分が、苦しいんでしょ?そういう自分も許してあげなよ。全部聞くから。」
真城が向ける眼差しにはこれまでにない程優しさが満ちていた。導かれるように私は本音という弱さを吐き出した。
「もう私37だからさ、時間がないの。タイムリミットはもう目の前なのよ。彼と離婚して別の人と結婚してとかしてる時間なんてないから、子どもが産めない人生が確定したのよ。なんの望みももうないの。わかる?選択肢なんてないの。そりゃここまで逃げてた私も悪いよ?女としての価値なんてゼロだよ?でもそれでもこんな仕打ちある?私は…母親になりたかった…。周りはさ、40で出産した人もいるとか、うるさいっての。私はその人じゃないし。離婚してまたゼロから恋愛をスタートできる年齢でもないの。少なくとも私には無理なの。わかるの、自分で。ずっと夫と生きてきて今更そんな器用なことできないし、そもそも私がそれを望んだら絶対人は後ろ指指してくる。もうどうしようもないがんじがらめよ。」
感情が溢れてしまい、思わず息を切らす。言えば言うほど惨めに思えたが、それも含めて自分自身ということなんだろう。しかし私はそれを受け入れられる程大人ではない。気づけば水面はぼんやりとしか見えなくなっていた。そしていつの間にか左手の上に真城の右手が重なっていた。それに気がついた瞬間顔が熱くなってしまい、恐る恐る真城に目をやると表情こそ崩していなかったが、艶のある眼差しを真っ直ぐ私に向けていた。この雰囲気に気づかないフリができる年齢ではない。なんとか修正しようと焦るあまりあたふたとしてしまった。
「あ、あ、そういえば飴ありがとね。元気になるおまじないかかってるし今食べちゃっていい?」
左のポケットから飴玉を出すのをきっかけに、真城はすっと右手を引いて一瞬驚いたようだがすぐにクスクスといつもの笑い方をした。
「いいよ、それ美味しいんだよ。」
今まで憎たらしかったいたずらっ子のような笑顔が、なんだか子どもをあやしている大人のように見えて少し恥ずかしい。私はピンクのビニールに包まれた飴玉を1つ開け口に放り込んだ。普段は甘いものなんて全く食べないのだが、この場を持たせるというか変な空気にさせないためのアイテムとして正直ありがたいと思った。
「あれ、ホントに美味しい。」
「えー疑ってたの。」
意外そうな私の発言に真城があざとく拗ねた顔をする。
「いやそうじゃないけどあんま食べないから、美味しい飴のイメージがなくて。でもこれ美味しい。」
「でしょ。元気出た?」
「うん、とっても。ありがとね。」
おまじないだなんて、よくもまあそんなあざといことをぬけぬけととも思ったが、実際真城の嬉しそうな顔を見ていると本当に気持ちが軽くなっていた。もう水面もはっきり見える。身近にこんな人がいてくれて良かった。その存在をなんと呼ぶか私には適切な言葉が浮かばなかったが、心が自由気ままに泳いでいるような不思議な感覚にさせてくれる子だった。だからこそこれ以上進んではいけない。久しぶりに心臓が踊ったこの感覚は今日限りのもの、今なら元に戻れる。静かに深呼吸を1つして話そうとした時、先に真城が口を開いた。
「やっぱり返して。」
「えっ」
私が反応する間もなく、真城は私を抱き寄せ唇を重ねた。癒やされていたはずが一瞬で全身が紅潮する。思考は停止し、絡み合う舌に脳髄まで溶けそうだった。真城が器用に舌で飴玉を奪い取る。私を見つめる妖しげな瞳の刺すような視線に耐えられず、間違いなく赤くなっているであろう顔を見られまいとうつむいた。しかし真城は私の顎に手を添え強引に目を合わせる。
「今帰ろうとしたでしょ。こうなるのが怖くて。」
クスクスと笑う顔が今度は悪魔に見えた。
「わ、わ、わかってるならなんでっ!もう!ダメだって…。」
これ以上は本当にいけない。私の勘が警告している。それは夫への裏切りとか、自己嫌悪とは違う第六感のようなもの。この関係が絶対に自力で抜け出せないものになるという自分の中の最後のストッパー。しかしこの悪魔はそんなものやすやすと破壊する。白く細い腕で私を強く抱きしめ、耳元で優しく囁いた。
「女として価値がないなんて言わせたくない。愛されてる実感は旦那さんからしか貰えないと思う。だけどその寂しさは、全部俺に吐き出してよ。」
無意識に求めることを避けていた承認欲求が満たされていくのを感じた。私は弱い。誰かに必要とされなければ心も身体も渇くような汚く醜い女だ。そんなどうしようもない私を真城だけが知っている。世界で1人の共犯者のように思えた。優しく甘美な誘惑をする真城に応えるように、私はその華奢な背中に手をまわした。
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