シークレットの標的(ターゲット)
退社時間になり、やっぱりアレがやってきた。
「望海、終わった?」
カウンターから覗き込むようにして声を掛けてくる。
金曜日と同様フロアの女子社員から黄色い声が上がる。
迎えに来るなと言ったはずなんだが。
むっとした顔を隠さず周りのスタッフに「お疲れ様でした」と声を掛けながら足早にフロアの出口へと向かう。
「待ち合わせは近くのカフェじゃなかったかしら」
小声で囁きこっそりと手の甲をつねってやった。
「待ちきれなかったんだ。仕方ないだろ」
にやりとして私の肩を抱き寄せた。再び黄色い声があちこちから聞こえる。
ちょっと何してくれてんのよ。
「話が違う」とつんっとして肩に置かれた手を払う。
「ほら、北京ダック、北京ダック」
耳元で囁かれごくりと喉がなってしまった。
「早く食べたいだろうと思って迎えに来たんじゃないか。早く行こうぜ」
「職場には来ないって約束だったのに。アワビも追加してもらうわよ」
「アワビも好きなのか?」
「好きよ」
「なら頼めばいいよ。常務の紹介してくれた店、アワビのオイスターソースのやつも評判いいらしい」
「え、いいの?」
「勿論だ、諸々お詫びの食事会なんだから好きなものを好きなだけ頼めばいいさ」
「あら、太っ腹。ならフカヒレもお願い」
「どうぞ、どうぞ」
フカヒレとアワビの誘惑にまあいいかと思ってしまう私も甘い。
この男は明らかに胃袋から落としにかかっているとわかっているのにこのざまだ。
ふたりでエントランスを歩いていくとあちこちからの視線を感じる。
ま、それも今さらなんだよね。
散々付き合ってると噂されてたし。
こうやってなし崩し的に外堀固めていく作戦なのかもしれないけど。
負けないわよ。
隣を歩く男の顔をチラリと見ると視線に気がついたのか「いい男だって気がついた?」と黒い笑みが戻ってくる。
「お財布として満点。今夜はありがたくお財布になってもらうわね」
「これで今までのことをリセットしてもらえるんなら安いもんさ」
「今夜の請求額をみても同じことが言えるといいわね」
ふふっと笑って今日のメニューに想いを馳せた。
元々は常務が今までのお詫びにと言い出した食事の誘いだった。
今朝、車で出勤した私たちを地下駐車場で出迎えてくれたのはなんと常務だった。
「おはよう、のんちゃん。週末はちゃんと緒方くんをこき使ってやったかい」
くりくりとした可愛らしい目を三日月にして子首をかしげる姿はとても大企業の常務だとは思えないただの癒し系の着ぐるみみたいだけど、常務の真の姿を少しだけ知ってしまった今は常務を前に以前とは違う意味で緊張してしまう。
「神田常務、おはようございます」
背筋を伸ばしきっちりと挨拶する緒方さんの隣で秘書課のお姉さまのように私もきっちり45度のお辞儀をした。
「おはようございます。神田常務」
「やだなあ、なんか他人行儀だなあ、のんちゃん」
常務はぷんっと唇を尖らせる。
そんなこと言われても困るんですよ。
直接顔を合わせたのも数えるくらいの間柄で。なんと言っても常務と平社員なんですから。