シークレットの標的(ターゲット)
父の後継者だという剣司さんは3年前から父の店で修行をしていたのだと。
高校卒業以降、私は実家に顔を出すことはあっても一度も店には顔を出さなかったから父が弟子をとったことも知らなかった。
剣さんの話では
二年ほど前、急に父が店をたたむと言い出し、料理に惚れ込んでいた剣さんと常連さんを慌てさせたらしい。
「俺はもうこうして毎日忙しく働くのに疲れた、この先は自宅の一部を改装して昼だけの蕎麦屋をやろうかと思う」
それから剣さんが父の味を完全な形で店ごと継いでいきたいと言い、反対に父を慌てさせたのだとか。
「親父さんは元々あの店の土地と建物を俺に譲る気だった、好きなようにやればいいと言ってくれたんです。でも、であれば俺はあの店のあの味を継承したかった。それで親父さんに頼んだんです。そしたら親父さんから出された条件がこのアップルパイのデザートだったんです。この店を継ぐならこれもそのまま出して欲しいと」
「どうしてアップルパイなんか・・・。これはいつからお店のメニューにあったんですか」
わたしが知る限りこれはメニューにはなかった。
「俺が店に入った3年前にはもうありましたよ」
・・・これがメニューになっていたなんて。
「俺はお嬢さんがいたころの親父さんたちのことは知りませんが、常連さんたちはお嬢さんが家を出てから元気が無くなったと言ってました」
私は剣さんの言葉に「そうですか」と言うしかなかった。
わたしを突き放したのはあの人の方なのに。
「『リッテラ』は今月いっぱいで営業を終了して改装する事になってます。俺が口出しすることじゃないのはわかってますけど、店を閉める前にーーー」
剣さんが言い終わる前にわたしは首を横に振った。
剣さんの言いたいことはわかってる。店を閉める前に顔を出して欲しいって言うのだろう。
でも、それは剣さんの思いであって、それを父や母が望んでいるかというと違うんじゃないかと思う。
仮に顔を出したとしても嫌味が飛んでくるだけだと思う。
わたしのせいで祖父が作った『リッテラ』を弟子とはいえ他人に委ねることになったとか。
それからもう少しだけ彼らと話をして私は緒方さんに連れられて緒方さんの部屋へと戻った。
なんだか朝から盛りだくさんの一日だった。
身体は疲れていないけれど、心の方に疲労感を感じる。
緒方さんの中に私を私のアパートの自室に帰すという選択肢はないらしく、当たり前のように連れ帰る。
緒方さんの部屋に戻ってからも緒方さんは私を甘やかし、世話を焼き続けている。こんなに世話好きだったとは、緒方さんの会社の姿しか知らない人は驚くんじゃないだろうか。
埃っぽくなったからと入浴を勧めあの部屋着に着替えさせると自分もシャワーを浴びてさっぱりし、膝の間に私を抱え込んだ。
さて、とわたしの身体に回された緒方さんの腕に力が入り上を向かされる。
・・・顔が近い。
緒方さんの端正な顔が目の前にあって心臓に悪い。
この距離に慣れない。
と言うか果たして慣れる日は来るんだろうか。
「望海、何か言いたいことがあるんじゃないのか」
「・・・あったけど今日はもういい。ちょっと疲れた」
ドキドキする鼓動は密着しているからバレているんだろうけど、この距離でいろいろと物申せと言われても無理だから。
落ち着かないから離れたいと言っても無理だろうし。
ここまでの付き合いでこの人の強引さは身に染みている。
今日の出来事に疲れた私は口を噤み、だらりと力を抜いて彼に身体を預けた。
「そうか。だったらこのままゆっくりするか」
ちょっと嬉しそうな緒方さんの声にイヤな予感がするものの、黙っていた方がたぶん自分のためだと思う。
そりゃあ聞きたいことはある。
むしろ追及したい。
私の実家に行った理由とか、
将来の義父母とか言ってた気もするし。
父のお弟子さんの奥さんと親しそうにしていた理由とか。
でも、今それを聞くタイミングではないと思うのだ。
それを口にしてしまったらわたしと両親の話をしなくてはいけなくなる。
わたしと両親との関係は複雑で根深い。
両親が店を手放すことは衝撃だけれど、だからといってわたしが両親に会いに行かなければいけないと周囲に強制されるのは違うと思う。