朝を探しています
 波那は気がつくとトイレの中で、ほとんど食べられなかった朝食を全て吐いていた。
 吐くものがなくなっても吐き気は全くおさまらず、その代わりのように両眼から涙が途切れることなく流れ出た。

 何も考えられなかった。

 ただ、自分の中から全部吐き出さなくてはならないという本能的なものが体を支配しているような状態だった。


 聞いたもの全部。
 想像したこと全部。
 悲しい気持ちも悔しい気持ちも。
 怒りも憎しみも嫉妬も絶望も、愛しさも。


 何も受け入れられない。自分の中に留めておけない。


 何度もえずきながら、波那は長い間その場を動くことができなかった。
 
 



 ようやく波那が立ち上がったのは、起き出した幸汰が自分を呼ぶ声が聞こえた時だった。

「ママぁ? ママどこー!」

 我にかえり、慌てて口元を拭ってトイレを出た。足音の聞こえるリビングに向かって声をかける。
「ママここだよ。ちょっと顔洗うから、幸汰はソファで待ってて。」
「はーい!」

 
 洗面所で見た自分の顔はひどいものだった。目元は真っ赤に腫れ上がっているのに、顔は血の気が引いたまま青白い。
 げっそりした化粧気のない三十路の女が鏡の中にいる。

 …25歳って言ってたっけ…

 雅人の7つ下。波那からは誕生日がくれば9つ下になる。
 雅人に甘える高い声が脳裏に焼き付いて離れない。よく知っているはずの雅人の声も、普段とは比べ物にならないほど色を含んでいたように感じた。…それほど冷静に聞けたわけはないが。


 あんな獣じみた…激しいセックスを、波那は雅人としたことがなかった。
 そもそも男性不審気味だった波那は雅人の前に付き合った人もいなければ、雅人相手にもなかなか体を許すことが出来なかった。当然、雅人しか知らないのだ。
 その雅人は、いつだって優しく穏やかに波那のことを抱いていた。波那はそんな雅人との時間に言いようのない快楽と幸せを感じていたのだが…。

 
 真美という女が雅人を誘う言葉がねっとりと波那の心臓に絡みつく。
 

 気持ち悪い…気持ち悪い気持ち悪い。
 真美という女も雅人も。
 でも……
 でも。



「ママぁ? まだ?」

 幸汰が洗面所のドアをスライドさせて覗いてきた。
 
「…ごめんね、幸汰。…りんご摺ってあるから、食べよっか。」
「! りんご! 食べる!…ママ? どうしたの? 泣いたの?」

 しゃがんだ波那の頰に心配そうに手を伸ばす幸汰を、波那はぎゅっと抱きしめた。

「ママ、ちょっとお腹が痛くなっちゃったの。幸汰と一緒にりんご食べてもいい?」
「うん! いっぱい食べていいよ!」

 温かい体を抱きながら、波那の視界がまた潤みだした。


 雅人…、雅人…。
 




 結局、どれほど吐いても涙を流しても、何一つ波那の心から外に出すことはできなかった。

 
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