朝を探しています
週末、金曜日の午後5時。
普段なら波那は琴乃と幸汰と家にいる時間だ。しかし今日は2人は優希の家に預けられている。優希の子どもの樹希と遊んでお泊まりの予定だ。
結局、平日は雅人と話をすることができなかった。子どもたちがいる場所ではもちろん、隣の部屋で眠っていてもできる話ではないと判断したからだ。週末に子どもたちを預かることを優希は快諾してくれた。「2泊まではOKよ。」とも。
もちろん、それに甘えまいとは思っているが。
しん、としたリビングのソファに波那は落ち着かない気持ちで座っていた。
金曜日。
いつも雅人が遅くなる日だ。…おそらく、真美という女と会っている日。
けれど今日の朝、雅人の方から
「ようやく主任の仕事にも慣れてきたから、週末の残業もしなくてすみそうなんだ。今日は早く帰るから。」
と言ってきた。
『今日は早く帰ってきてほしい』は波那が言うはずだったセリフだ。
なんとなく出鼻を挫かれた気がして
「わかった。」
とだけ返事をした。
早く帰ると言っても、7時は回るだろう。
あと2時間と少し。
波那が何度目かになる深いため息をついたちょうどその時、インターホンが鳴った。
「? 宅配便か何かかな。」
モニターを覗き込むと、そこにはよく見る宅配のユニフォームではなく、シフォンのブラウスを着た小柄な女性が写っていた。
「はい?」
「すみません、斉木さんのお宅でしょうか。」
「はい、そうですが…」
波那の心臓が突然ドクンと鳴った。
この声を私は聞いたことがある…この人はきっと…
「はじめまして。片山真美と言います。先日お送りさせて頂いたもののことで、奥様とお話をしたいと思いまして。」
「……」
女は口の両端を持ち上げて、にこりと笑った。
「奥様? おうちに伺いたいのですが。」
「…嫌。嫌です。」
かろうじて波那の口からその言葉が出た。
あまりに予想外のことで頭の中が真っ白になったが、この家…波那が何よりも大切にしているこの場所には絶対に足を踏み入れさせてはならないと本能的に感じた。
「…では、外に出てきて頂けますか?」
モニターには変わらず笑顔の女が写っている。しかしその目は見えないはずの波那を激しく睨みつけているようだった。
波那はゆっくりと目を閉じて、深呼吸を1つした。
落ち着け。冷静になれ。
こんな非常識な女のペースに呑まれちゃいけない。
雅人からはまだ何も話を聞いていない。
聞いて何を納得できるとも思わないが、少なくとも先にこの女から話を聞くことが良策だと思えなかった。
でも…
この1週間、雅人の前で何とか上辺を繕いながら日常を過ごすのは思った以上に辛かった。笑顔の裏で自分を裏切っているのだと思うと、思い切り詰って大声で罵倒したくなった。泣き喚きたかった。
それをしなかったのは、子どもたちの為だけだ。
けれど体は心に忠実で、食べ物をほとんど受け付けなくなった。
食べては吐き、食べては吐きで4キロも体重が減った。
自分でもどうにかしないととは思っているが、逆にその非日常が自分がまともな精神である証のような気さえしてどこか安心でもあった。
早くこの地獄のような日々から抜け出したい。
そんな思いで迎えた金曜日だ。
…どうせ、いつか顔を合わせることになるなら。
モニターの向こう、流石に焦れたように何度も『奥様? 聞こえていますか?』と繰り返す女に、波那はようやく意識を戻すと、家から少し離れた場所にあるカフェの名前を告げた。
「そこで待っていてください。30分後に行きます。」
今日、色々なものが動き出そうとしているのだろう。
ならば、自分もそれに乗ってやろう。
この女の前から逃げることだけはしない。
決意を込めた目で、波那は支度に取り掛かった。
普段なら波那は琴乃と幸汰と家にいる時間だ。しかし今日は2人は優希の家に預けられている。優希の子どもの樹希と遊んでお泊まりの予定だ。
結局、平日は雅人と話をすることができなかった。子どもたちがいる場所ではもちろん、隣の部屋で眠っていてもできる話ではないと判断したからだ。週末に子どもたちを預かることを優希は快諾してくれた。「2泊まではOKよ。」とも。
もちろん、それに甘えまいとは思っているが。
しん、としたリビングのソファに波那は落ち着かない気持ちで座っていた。
金曜日。
いつも雅人が遅くなる日だ。…おそらく、真美という女と会っている日。
けれど今日の朝、雅人の方から
「ようやく主任の仕事にも慣れてきたから、週末の残業もしなくてすみそうなんだ。今日は早く帰るから。」
と言ってきた。
『今日は早く帰ってきてほしい』は波那が言うはずだったセリフだ。
なんとなく出鼻を挫かれた気がして
「わかった。」
とだけ返事をした。
早く帰ると言っても、7時は回るだろう。
あと2時間と少し。
波那が何度目かになる深いため息をついたちょうどその時、インターホンが鳴った。
「? 宅配便か何かかな。」
モニターを覗き込むと、そこにはよく見る宅配のユニフォームではなく、シフォンのブラウスを着た小柄な女性が写っていた。
「はい?」
「すみません、斉木さんのお宅でしょうか。」
「はい、そうですが…」
波那の心臓が突然ドクンと鳴った。
この声を私は聞いたことがある…この人はきっと…
「はじめまして。片山真美と言います。先日お送りさせて頂いたもののことで、奥様とお話をしたいと思いまして。」
「……」
女は口の両端を持ち上げて、にこりと笑った。
「奥様? おうちに伺いたいのですが。」
「…嫌。嫌です。」
かろうじて波那の口からその言葉が出た。
あまりに予想外のことで頭の中が真っ白になったが、この家…波那が何よりも大切にしているこの場所には絶対に足を踏み入れさせてはならないと本能的に感じた。
「…では、外に出てきて頂けますか?」
モニターには変わらず笑顔の女が写っている。しかしその目は見えないはずの波那を激しく睨みつけているようだった。
波那はゆっくりと目を閉じて、深呼吸を1つした。
落ち着け。冷静になれ。
こんな非常識な女のペースに呑まれちゃいけない。
雅人からはまだ何も話を聞いていない。
聞いて何を納得できるとも思わないが、少なくとも先にこの女から話を聞くことが良策だと思えなかった。
でも…
この1週間、雅人の前で何とか上辺を繕いながら日常を過ごすのは思った以上に辛かった。笑顔の裏で自分を裏切っているのだと思うと、思い切り詰って大声で罵倒したくなった。泣き喚きたかった。
それをしなかったのは、子どもたちの為だけだ。
けれど体は心に忠実で、食べ物をほとんど受け付けなくなった。
食べては吐き、食べては吐きで4キロも体重が減った。
自分でもどうにかしないととは思っているが、逆にその非日常が自分がまともな精神である証のような気さえしてどこか安心でもあった。
早くこの地獄のような日々から抜け出したい。
そんな思いで迎えた金曜日だ。
…どうせ、いつか顔を合わせることになるなら。
モニターの向こう、流石に焦れたように何度も『奥様? 聞こえていますか?』と繰り返す女に、波那はようやく意識を戻すと、家から少し離れた場所にあるカフェの名前を告げた。
「そこで待っていてください。30分後に行きます。」
今日、色々なものが動き出そうとしているのだろう。
ならば、自分もそれに乗ってやろう。
この女の前から逃げることだけはしない。
決意を込めた目で、波那は支度に取り掛かった。