朝を探しています
 雅人の母親は雅人名義の通帳だけを残して出ていったが、後日ほとんどの通帳が印鑑と共に送り返されてきた。
 なかったのは母親の給料が振り込まれていたものだけだった。

 対して、波那の父親は少しの衣類のほかは全てを残していった。
 そしてその後、毎月1日に波那名義の口座に6桁の額が振り込まれるようになった。
 
 離婚届は、失踪から2週間後に届いた。
 
 父親の記入済みのそれを、リビングのテーブルで母親が長い間見ていた。その母親を、隣の部屋から波那は息を潜めて見ていた。

 母親までどこかに行ってしまうのではないかと思った。
 父親が消えてから、自分が現実世界を生きている感覚がなくなっていた。ずっと、夢の中で息をしているようだった。
 
 父親が今どうしているのか、もう二度と会えないのかと考えると、自室にいても学校にいても涙が溢れて止まらなかった。けれど、母親の前でだけはなぜか我慢しなくとも泣けてくることがなかった。
 自分の前で普段のように振る舞おうとする母親の不自然さに、微かな振動で粉々になりそうなものを波那は無意識のうちに感じとっていた。
 息を潜めるように、慎重に、父親のいなくなった毎日をそれまでの日常の続きのように過ごしていたのだ。
 

 けれどもちろん、そんな日々が長く続くわけはなかった。


 父親がいなくなって1ヶ月たたないうちに、波那の母親は近くの総合病院で働き口を見つけてきた。母親が医療事務の資格を持っていたことを、その時波那は初めて知った。
 
 
 学校から帰宅しても迎えてくれるものがいないことは寂しかったが、明らかに疲れて帰ってくる母親のために夕食の準備をすることは、波那にとってどこか心の拠り所にもなった。
 見映えの悪いまだ料理とも言えない夕食を作りながら、時々波那は雅人のことを思い出した。

 雅人の父が訪ねてきたあの夜の雅人の無表情。
 あれから何度か自宅前で雅人を見かけたが、どちらからともなく目を逸らし、声をかけることもなく足早にその場を離れるようになっていた。

『波那ちゃん!』

 そう呼ばれていたことが無性に懐かしくなることがあった。
 波那には、雅人にも雅人の父親に対しても
恨むような気持ちはなかった。それが普通なのか普通でないのかもわからなかったが、なんとなく、事情を知る学校の教師や友人、そして母親の前では張り詰めている気のようなものを、その2人の前では張らなくていいような気がしていた。
 といって、2人と以前のように付き合えるわけもないとわかっていたので、いつも変な感じですれ違うだけになったのだ。



 波那と母親が薄氷のうえで新しい生活を始めようとしていたその頃、たまに見かける雅人の様子が明らかにおかしくなっていた。
 
 最初は、生気のまるで感じられない目が。
 それから、ブラシが入れられていないことが目立つほどに伸びた髪。
 襟元や袖口がくすんでいるシャツ。そこから伸びる手首の病的な細さが。

 波那の心に警鐘を鳴らし、無視できない程になりつつあったある日。
 波那の目の前で雅人が倒れた。

 学校からの帰り道、雅人が自分の家の鍵を開け、ちょうどその前を波那が通りかかったタイミングだった。

『雅人くん‼︎』

 半開きの玄関のドアに寄りかかるように頽れていく雅人を走り寄った波那が抱きかかえた。
 背負ったランドセルの中身はほとんどないようだったが、それにしてもかかえた雅人の軽さと折れそうな細さに波那はぎょっとした。

『雅人くん! 大丈夫⁈ 』
『…は、なちゃ…?』

 とにかくどこか柔らかいところに雅人の体を横たえようと、波那は雅人を抱き上げて玄関から中に入った。

『ごめんねっ、ちょっとお邪魔するからね』

 雅人の家には何度も上がったことがある。
 リビングに大きなソファがあったはずだと、埃の多い廊下を抜けてその部屋の引き戸を肘で開けて。

『…え?』

 波那は目を見張り、言葉を失った。

 ダイニングと一続きになっているそのリビングは、ゴミで溢れていた。
 雅人を寝かせようと思っていたソファには、雅人のものかそれとも雅人の父のものか、脱ぎ捨てられた服が山積みになっている。
 テーブルのゴミはほとんどカップ麺やコンビニ弁当の殻のようだった。
 
 所々にいっぱいに詰められたゴミ袋がしばられたまま放置されている。

 しかし波那が放心していたのは1分にも満たない間で、すぐに玄関まで取って返すと隣の自分の家に雅人を連れ帰った。



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