うましか

 将棋部の部室を出て、今日はもう帰ろうと、鞄の中の自転車の鍵を探す、と。英語のノートと週末課題のプリントがないことに気付いた。
 今週末は家で大人しく勉強したほうがいいだろう。間近に迫った学年末考査でまたとんでもない結果を出してしまったら……。

 補習や課題漬けになる未来を想像し、ぶるっと背筋を震わせながら、すっかり人けのなくなった廊下を行く。

 ほとんどの教室は灯りも落とされ、吹奏楽部の合奏の音が遠くから漏れ聞こえてくるだけだったけれど。ひとつだけ灯りがついた教室があり、そこから女の子たちの楽しげな笑い声が聞こえた。

 姿を確認しなくても、教室に誰がいるか分かった。ここ二ヶ月、ずっとそばで聞いていた声だ。でもそれと同時に、知らない声でもあった。いつもの明るくてよく通る高い声ではない。やけに棘のある低い声だ。

 そしてその声の主は、数人の女子たちと一緒に、次々と侮辱の言葉を口にする。その度に、楽しげではあるが下品な笑い声が響く。話題は声の主の彼氏についてだった。

「クラスの中ではましな顔と頭」をしているらしい彼氏と「暇つぶし」に付き合い「勉強を教えさせる」つもりだったけれど「出会いが補習じゃあ大した頭じゃない」らしい。彼氏は先日の実力テストで散々な結果を出し、彼女たちをたいそう笑わせたが「もういい」らしい。「童貞でももらって」「最後にもうひと笑い」したら「別れる」し、「キスが下手すぎる」彼氏が「初体験でどんな可笑しな態度をとるか」を「期待している」という話を、僕は暗い廊下に立ち尽くしたまま聞いた。

 机に「馬」の字を書いた誰かの言う通りだ。僕は熱に浮かされていたとんでもない馬鹿だったらしい。

 初めてできた彼女とは、その翌日、盗み聞きしていたということを隠したまま、別れを告げた。「そう、残念」と言って去って行ったあの子は、どういう意味で「残念」の言葉を使ったのだろうか。


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