うましか

 次の朝、彼女は僕よりずっと早く起きて、朝食の支度をしたあと、僕の脇腹を思いっきりくすぐりながら「朝だよ祥太くん!」と元気良く起こしてくれた。

 付き合い始めて一年経つのに、彼女が僕の名前を呼ぶのは、抱き合うときや、朝僕を起こすときだけ。抱き合っているときは気分が高揚しているし、朝は寝起きが悪くてなかなか覚醒しない。そんなときにしか名前を呼んでくれないなんて、彼女は相当照れ屋で意地悪だ。

 まあ僕も僕で、彼女の名前を呼ぶのは抱き合っているときか、彼女の健やかな寝顔を見ているときだけなのだけれど。


 くすぐられて大笑いしたために浮かんだ涙を拭いながら起き上がると、彼女は「もう行くから朝ごはん食べてね」とエプロンを外しながら言う。

「待って待って、車で送るから。顔だけ洗うから待ってて」
「ううん、大丈夫。本部に用があるから、地下鉄ですぐだよ」

 ここで一緒に朝食を食べて行ってほしいし、車で自宅マンションまで送りたいのに、そう言われてしまえば引き留めるわけにはいかない。
 僕はいつも、彼女がひとりで部屋を出て行くのを、とても寂しく、残念に思っているというのに。

 と、ここで急に閃いた。
 朝目が覚めてからの三時間は、脳が最も効率よく働く「ゴールデンタイム」なのだという。そのゴールデンタイムに意志決定の時間や疲労を軽減するため、毎日同じような服を着ているという学者や起業家も多くいる。
 この朝のゴールデンタイムに、僕も現状の打開策を思いついたのだ。いや、本当は少し前から考えていたことだけれど、時期を見計らっていて、今がそのときだとただ決断しただけだ。


「ねえ、笹井さん」
「うん?」
「バレンタイン、ありがとう」
「え、うん、どういたしまして」
「ホワイトデーのお返しで考えてること、言っていい?」
「うん」
「ホワイトデーっていうか、その近辺に、ふたりで暮らす部屋を、探しに行こう」
「……へ?」
「笹井さんさえ良ければ、だけど……」



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