あなたが好き
①
永井彩花は両腕いっぱいに書類を抱えながら、会社の廊下を足早に歩いていた。
今日は月初の月曜日、月に一度の倉庫整理の日だ。
(――やっぱり、一人で倉庫の整理をするのはキツい)
倉庫整理をやるのは同僚の戸部美咲のはずだった。
でも、美咲は倉庫整理の担当を彩花に変えてしまったのだ。
彩花も倉庫整理なんてやりたくないが、断り切れず、結局は引き受けてしまった。
どうして、美咲は自分にだけ冷たいんだろう、と彩花はいつも思う。
美咲は会社の重役の娘だが、なぜか彩花に冷たく、時には意地悪なことまでしてくる。
倉庫整理の担当を彩花に変えたのも良い例だ。
(――私が美咲に意地悪したいくらいなのに)
彩花は考えごとをしながら歩いているうちに気が緩んでしまい、手に抱えていた書類を廊下に落としてしまった。
彩花は慌てて書類を拾い集めようと、身体を屈めた。
「大丈夫?」
後ろから声が聞こえてきた。振り向くと、彩花の部署の課長である森川博人が立っている。
「すみません、大丈夫です」
彩花は森川から目を逸らして俯いた。
恥ずかしいところを見られてしまった、と彩花は思った。こんなドジやっている場面、よりによって課長に見られてしまうなんて。
「手伝うよ」
森川は彩花と一緒に、床に散らばった書類を拾い始めた。
彩花に比べて森川は手際がよく、書類のほとんどをあっという間に集めてしまった。
「どうぞ」
森川が彩花に集め終わった書類を笑顔で手渡す。
「ありがとうございます」
彩花は書類を受け取りながら、心の中で呟いた。
(――あなたが好き)
今まで何回、心の中でこの言葉を呟いただろう。
彩花は森川が好きだった。
書類を派手に落としてしまったことでもわかるように、彩花はドジな人間だ。何事も真面目に頑張るが、どこか抜けてしまうことがよくある。
決して優秀とは言えない彩花を、森川はいつも気にかけてくれた。
よく声を掛けてくれたり、今みたいに彩花が困っていると手助けしてくれたりする。
彩花はそんな森川をいつの間にか好きになっていた。
彩花は何度も森川に告白しようと思ったが、勇気が出ず、心の中でこっそりと告白を繰り返すだけだった。
「どうしたの? 二人とも」
彩花が森川から書類を受け取っていると、今度は女性の声が聞こえてきた。
彩花が振り返ると、彩花と森川の部署の部長である柳田月子が立っている。
「私が書類を落としてしまって、森川課長が拾うのを手伝ってくれたんです」
彩花が言うと、月子は笑顔で森川を見上げた。
「森川君、さすが気が効くわね。でも、こんなところで永井さんと二人きりでいるなんて驚いたわ。まあ、戸部さんが見たら私よりも驚くかも」
「確かに永井さんは良い部下ですけど、やましいことは何もないですよ」
森川が爽やかに答える。
「そうよね。2ヶ月後には結婚式だし。実はスピーチやるの、今から緊張してるの」
森川と月子が会話しているのを聞いて、彩花は胸の奥に痛みを感じた。
彩花に冷たい美咲は森川と婚約していて、2ヶ月後に結婚式を控えていた。
上司の月子は結婚式のスピーチを頼まれていて、彩花も仕方なく式に出席する予定になっていた。
森川と美咲が結婚すると初めて聞いた時、彩花は今まで感じたことがないほどのショックを覚えた。1ヶ月くらいは毎日泣いていたし、仕事中に涙がこぼれてくることもあった。
今はかなり落ち着いたが、それでも森川と美咲の結婚の話題が出ると、胸の奥が痛くなってしまう。
彩花が胸の痛みを感じながら森川と月子の会話を見ていると、スマホの着信音が聞こえてきた。
「すみません、お客様から電話が。じゃあ、永井さん、倉庫整理よろしくね」
森川はスマホで話しながら、どこかへ行ってしまった。
彩花は森川が小さくなって行くのを見つめていたが、ふと月子が自分をニコニコしながら見ていることに気付いて我に返った。
「すみません、ぼんやりしてしまって」
彩花はまさか月子に自分の森川への想いがばれてないだろうとは思ったが、とっさにごまかすような言葉を言った。
「いいのよ」
月子はニコニコしていたが、一瞬真顔に戻った。「永井さん、森川君のこと、好きなんでしょ?」
「えっ?」
彩花は思わず月子から顔を逸らした。
彩花は自分でもこの反応はばれるだろうと恐る恐る顔を上げてみると、月子はさっきと同じようにニコニコしている。
「気にしなくても良いのよ。だって、森川君、良い男だもの」
「やっぱり、わかります?」
「そうね。森川君や他の人はどうかわからないけど、私は一応上司だし。何となくね」
「すみません」
「謝ることなんてないのに。でも、森川君も結婚するし、そろそろ別の人を探した方が良いわね。永井さんならすぐに良い人が見つかるわよ」
「そうですか?」
「そうよ! もっと自分に自信を持って」
月子は森川と同じように、いつも彩花を気にかけて励ましてくれる。
見た目や口調は穏やかで女性らしいが、誰にも負けないくらい仕事ができて、社内の女性で唯一部長職をやっているのだ。
月子は彩花の憧れの女性だった。
「ありがとうございます」
彩花の返事に月子は頷くと、スーツのポケットからマニキュアのようなものを取りだして彩花に渡した。
マニキュアだと思ったものは、USBメモリーだった。
「かわいいでしょ? それ。お願いなんだけど倉庫整理が終わったら、この中に入っている会社の写真を全部プリントアウトしてくれる? 広報で使うの」
「はい、やっておきます」
「パスワード入力してって出てくるから、『0129』って入力してね」
彩花はあれっ? と思った。1月29日は森川の誕生日だった。
「1月29日、旦那の誕生日なの。森川君と同じみたいね」
月子はそう言って彩花に軽く手を振ると、立ち去って行った。
彩花は何とか倉庫整理を終わらせると、自分の部署に戻った。
早速、自分のパソコンにUSBメモリーをさして、月子から言われた『0129』のパスワードを入力する。
入力しながら彩花は「そろそろ別の人を探した方が良いわね」という月子の言葉を思い出す。
自分でも別の人を探した方が良いとわかっている。そうは言っても彩花はやっぱり森川が好きだった。
彩花は少し離れた席にいる森川を見た。
(――やっぱり、あなたが好き)
心の中で呟きながら森川を見つめていると、彩花は突然背中を強く押された。
振り返ると、ちょうど美咲が後ろを通り過ぎようとしているところだった。
「ごめんなさい」
美咲は彩花を見下ろしながら言うと、何もなかったように通り過ぎて行った。
たまたまぶつかっただけにしては強い力だったな、と彩花は思った。
そして、あの美咲の表情。自分を見下ろした時に睨まれたような。
彩花はさっき、月子が「森川君のこと、好きなんでしょ?」と言っていたことを思い出した。
(――もしかして、美咲は私が森川課長を好きだと気付いてるの?)
美咲だって森川が好きなんだ、月子とはまた別の意味で森川を見ているに違いない。
森川に熱い視線を送る彩花の存在に気付いてもおかしくない。
(――だから、美咲は私にだけ冷たいんだ)
今日は月初の月曜日、月に一度の倉庫整理の日だ。
(――やっぱり、一人で倉庫の整理をするのはキツい)
倉庫整理をやるのは同僚の戸部美咲のはずだった。
でも、美咲は倉庫整理の担当を彩花に変えてしまったのだ。
彩花も倉庫整理なんてやりたくないが、断り切れず、結局は引き受けてしまった。
どうして、美咲は自分にだけ冷たいんだろう、と彩花はいつも思う。
美咲は会社の重役の娘だが、なぜか彩花に冷たく、時には意地悪なことまでしてくる。
倉庫整理の担当を彩花に変えたのも良い例だ。
(――私が美咲に意地悪したいくらいなのに)
彩花は考えごとをしながら歩いているうちに気が緩んでしまい、手に抱えていた書類を廊下に落としてしまった。
彩花は慌てて書類を拾い集めようと、身体を屈めた。
「大丈夫?」
後ろから声が聞こえてきた。振り向くと、彩花の部署の課長である森川博人が立っている。
「すみません、大丈夫です」
彩花は森川から目を逸らして俯いた。
恥ずかしいところを見られてしまった、と彩花は思った。こんなドジやっている場面、よりによって課長に見られてしまうなんて。
「手伝うよ」
森川は彩花と一緒に、床に散らばった書類を拾い始めた。
彩花に比べて森川は手際がよく、書類のほとんどをあっという間に集めてしまった。
「どうぞ」
森川が彩花に集め終わった書類を笑顔で手渡す。
「ありがとうございます」
彩花は書類を受け取りながら、心の中で呟いた。
(――あなたが好き)
今まで何回、心の中でこの言葉を呟いただろう。
彩花は森川が好きだった。
書類を派手に落としてしまったことでもわかるように、彩花はドジな人間だ。何事も真面目に頑張るが、どこか抜けてしまうことがよくある。
決して優秀とは言えない彩花を、森川はいつも気にかけてくれた。
よく声を掛けてくれたり、今みたいに彩花が困っていると手助けしてくれたりする。
彩花はそんな森川をいつの間にか好きになっていた。
彩花は何度も森川に告白しようと思ったが、勇気が出ず、心の中でこっそりと告白を繰り返すだけだった。
「どうしたの? 二人とも」
彩花が森川から書類を受け取っていると、今度は女性の声が聞こえてきた。
彩花が振り返ると、彩花と森川の部署の部長である柳田月子が立っている。
「私が書類を落としてしまって、森川課長が拾うのを手伝ってくれたんです」
彩花が言うと、月子は笑顔で森川を見上げた。
「森川君、さすが気が効くわね。でも、こんなところで永井さんと二人きりでいるなんて驚いたわ。まあ、戸部さんが見たら私よりも驚くかも」
「確かに永井さんは良い部下ですけど、やましいことは何もないですよ」
森川が爽やかに答える。
「そうよね。2ヶ月後には結婚式だし。実はスピーチやるの、今から緊張してるの」
森川と月子が会話しているのを聞いて、彩花は胸の奥に痛みを感じた。
彩花に冷たい美咲は森川と婚約していて、2ヶ月後に結婚式を控えていた。
上司の月子は結婚式のスピーチを頼まれていて、彩花も仕方なく式に出席する予定になっていた。
森川と美咲が結婚すると初めて聞いた時、彩花は今まで感じたことがないほどのショックを覚えた。1ヶ月くらいは毎日泣いていたし、仕事中に涙がこぼれてくることもあった。
今はかなり落ち着いたが、それでも森川と美咲の結婚の話題が出ると、胸の奥が痛くなってしまう。
彩花が胸の痛みを感じながら森川と月子の会話を見ていると、スマホの着信音が聞こえてきた。
「すみません、お客様から電話が。じゃあ、永井さん、倉庫整理よろしくね」
森川はスマホで話しながら、どこかへ行ってしまった。
彩花は森川が小さくなって行くのを見つめていたが、ふと月子が自分をニコニコしながら見ていることに気付いて我に返った。
「すみません、ぼんやりしてしまって」
彩花はまさか月子に自分の森川への想いがばれてないだろうとは思ったが、とっさにごまかすような言葉を言った。
「いいのよ」
月子はニコニコしていたが、一瞬真顔に戻った。「永井さん、森川君のこと、好きなんでしょ?」
「えっ?」
彩花は思わず月子から顔を逸らした。
彩花は自分でもこの反応はばれるだろうと恐る恐る顔を上げてみると、月子はさっきと同じようにニコニコしている。
「気にしなくても良いのよ。だって、森川君、良い男だもの」
「やっぱり、わかります?」
「そうね。森川君や他の人はどうかわからないけど、私は一応上司だし。何となくね」
「すみません」
「謝ることなんてないのに。でも、森川君も結婚するし、そろそろ別の人を探した方が良いわね。永井さんならすぐに良い人が見つかるわよ」
「そうですか?」
「そうよ! もっと自分に自信を持って」
月子は森川と同じように、いつも彩花を気にかけて励ましてくれる。
見た目や口調は穏やかで女性らしいが、誰にも負けないくらい仕事ができて、社内の女性で唯一部長職をやっているのだ。
月子は彩花の憧れの女性だった。
「ありがとうございます」
彩花の返事に月子は頷くと、スーツのポケットからマニキュアのようなものを取りだして彩花に渡した。
マニキュアだと思ったものは、USBメモリーだった。
「かわいいでしょ? それ。お願いなんだけど倉庫整理が終わったら、この中に入っている会社の写真を全部プリントアウトしてくれる? 広報で使うの」
「はい、やっておきます」
「パスワード入力してって出てくるから、『0129』って入力してね」
彩花はあれっ? と思った。1月29日は森川の誕生日だった。
「1月29日、旦那の誕生日なの。森川君と同じみたいね」
月子はそう言って彩花に軽く手を振ると、立ち去って行った。
彩花は何とか倉庫整理を終わらせると、自分の部署に戻った。
早速、自分のパソコンにUSBメモリーをさして、月子から言われた『0129』のパスワードを入力する。
入力しながら彩花は「そろそろ別の人を探した方が良いわね」という月子の言葉を思い出す。
自分でも別の人を探した方が良いとわかっている。そうは言っても彩花はやっぱり森川が好きだった。
彩花は少し離れた席にいる森川を見た。
(――やっぱり、あなたが好き)
心の中で呟きながら森川を見つめていると、彩花は突然背中を強く押された。
振り返ると、ちょうど美咲が後ろを通り過ぎようとしているところだった。
「ごめんなさい」
美咲は彩花を見下ろしながら言うと、何もなかったように通り過ぎて行った。
たまたまぶつかっただけにしては強い力だったな、と彩花は思った。
そして、あの美咲の表情。自分を見下ろした時に睨まれたような。
彩花はさっき、月子が「森川君のこと、好きなんでしょ?」と言っていたことを思い出した。
(――もしかして、美咲は私が森川課長を好きだと気付いてるの?)
美咲だって森川が好きなんだ、月子とはまた別の意味で森川を見ているに違いない。
森川に熱い視線を送る彩花の存在に気付いてもおかしくない。
(――だから、美咲は私にだけ冷たいんだ)
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