魂を反す香
私が攘夷派の内偵であると疑いがかかり、夜の闇に乗じて長く暮らした花街から逃げ出したのは、それから間もなくのことだった。
彼からもらった香炉とお香は、長い間お世話になった揚屋の旦那さんに託すことにした。それらがどうなったのかは分からない。追手に捕まり拷問を受けるのは構わない。情報を漏らす気は毛頭ない。けれど知らない誰かの手によって命を落とすことだけは嫌だった。
それならば貴方さまの手で終わらせてほしい。彼にそう頼み込んだ。追手から逃げ切ることは難しいだろう。幼い頃から花街で生活してきた私が、追手の目を掻い潜り京から脱出するのは至難の業だ。ならば私は、ここで役目を終えることにする。
彼はそれを拒否し、逃げ道と潜伏先の説明をしたけれど、とても現実的だとは言えなかった。彼はそれが理解できないわけではなかった。私をどうにか逃がしたい、けれど無理な逃走で捕縛され拷問を受けることになってしまったら……その狭間で揺れ、苦悩し、嘆き、憐れみ、そして最後には、刀を抜いてくれたのだった。
脇差の切っ先が、胸に突き刺さる。彼は空いている左腕を私の背中に回し、優しく包み込むように抱いてくれた。こんなに幸せなことはない。花街に売られた私が、愛しい相手の腕の中で生涯を終えるだなんて。思わず笑みがこぼれた。
けれど彼は泣いていた。いつもの柔らかい表情はどこにもなく、ただその涼やかな目から、ぼろぼろと涙をこぼしていた。そして気付く。私は最期の最期で、取り返しのつかないいけずをしてしまったのだと。
私は幸せでした、だから泣かないで。それを伝えるために彼の震える喉元に頬を摺り寄せる。彼は何度も私の名を呼び、背中を擦って痛みを紛らそうとしてくれた。
それでも彼は、いけずな私を許さないだろう。でももし許されるなら、願わくは……願わくは来世では、一緒になりたい。こんな動乱の時代ではなく、誰もが平和と幸福を享受できるような時代に出会って、一から恋をしたい。
――来世で会いまひょ。
出かかった言葉を寸でで飲み込み、静かに目を閉じた。私の最期の頼みを聞いてくれた優しい彼を、死にゆく私の呪いじみた言葉で縛りたくはなかった。だからただ静かに、彼が呼ぶ私の名を聞いていた。それもまた、幸せなことだったと思う。愛しい相手の声は、何よりも安らぐ子守歌なのだ。
そうやって生涯を終えた私には、この後彼が、国が、攘夷志士たちがどうなったのか、知る由もない。もしかしたらあの後すぐに動乱の世が終わり、安寧の時代が始まり、彼は私ではない誰かと結ばれ、幸せな生涯を送ったかもしれない。
今生を終えた私にできるのは、彼が反魂香を使ってくれる日を待つことだけだった。
けれど彼と再会する日は、ついぞやって来なかった。
(琴里の章・了)