海に溺れて
① 旧友、吉澤
季節は晩冬で朝はまだ寒い。治療をする部屋の暖房を入れたりして患者を治療する準備をしていると、電話の呼び出し音が鳴った。
電話にはクリニックで働いてもらっている看護師、円山カナさんがでてくれた。僕は患者さんとカウンセリングをしているので午後七時までは時間をとれないといってもらった。あとでカナさんに用件がなんだったかを尋ねると、電話をかけてきた男性は地方情報誌の編集者で、吉澤と名乗ったという。吉澤は僕のしているインド医学での治療を取材して、一冊の本にしたいという話だった。吉澤という男性の名に覚えはなかった。
仕事を終えたあと、僕は吉澤という名の男性に電話をかけた。
「賀茂です。お電話にもでれずに申しわけありませんでした。さきほどまでカウンセリングに専念していたものですから」
「吉澤です。わざわざ電話をいただいて、こちらこそ恐縮です」
受話器から、早口で話す男性の声が聞こえてきた。
「私を本にしたいとのことですが、ひとさまにお話しするようなことはなにひとつしておりませんので、お断りしたいのですが」
「いや、是非、とにかく一度会ってお話ししたいのです。いろいろとお話をうかがって、本にするかどうかをご相談をしましょう」
熱心な話し方に、なんとなく気後れしつつも、吉澤と話をしているうちに、なんとなくだが、彼の話し方に、なにやら聞き覚えがあるような気がしてきた。
「失礼ですが、中学はどの学校でしたか?」
僕は吉澤に訊いた。
「猿丸中学ですが」
「やっぱり、それで、三年生のときの担任は木下先生では?」
「ええ、そうですが、なぜですか?」
「吉澤って名乗ってるいるけど、あなたは鈴木明という名前じゃないのかな」
「えっ、そうです。僕の父は養子で、母が亡くなってから父も再婚して、吉澤明になったんです」
「僕のこと、覚えていないのか? あいかわらずだな。賀茂だよ。賀茂雅人だよ。鈴木、いや今は吉澤か。吉澤は昔から人の名前をすぐに忘れてしまうやつだったからな。昔、賀茂ネギがどうのこうのっていじられていた賀茂だよ」
電話のむこうで、一瞬かすかに息をとめるのがわかった。
「ああ、なんとなく思いだしてきたよ。やあやあ、ほんとうに久しぶりだな。俺と生年月日がおなじだったよな。高校は別々だったけど、中学のときは、坂田や須藤らとよくサイクリングにも行ったよな」
「そうそう、覚えているよ。ああ、懐かしいな」
話は尽きそうになかった。とにかく、明日の夜、静かなところで会うことにして、受話器を置いた。若かりし頃が思いだされて、なんとなくあの頃、よく吉澤たちと飲んでいた麦茶でも飲みたいと思った。電話を切ると、また電話があった。数ヶ月まえまで来院されていた患者の家族の方からだった。確か、六十代の男性だった。心臓が弱く、週にいちど来院して、治療をしていたことを思いだした。
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