きんいろ
      ☆ 

 まさか彼女がここにいるとは思わなくて、私は驚きを隠せない声でフェンスの外から名前を呼んでいた。
「柊子?」
 空を見ていた柊子が驚いたようにふり返る。私だとわかると、何だか気弱な笑みを浮かべた。
 錆びた金網の扉を押し開けて、私は柊子のそばに行く。青いベンチの、柊子の隣に座った。
 ベンチは背の高い木の陰になっていて、少しだけ風が涼しい。
「どうしたの?」
 まず、尋ねた。こんなところにひとりでいるなんて、どうしたんだろう。しかも沈んだ表情で。
 心に浮かんだのは、中学のときのようにバスケ部の仲間に陰口を言われて落ち込んでいるんじゃないか、ということだった。三年生が引退したあと、柊子は二年生部員を飛び越してレギュラーになっていたから。
「うん……美雨は? 用事があったんじゃなかった?」
 すぐにはっきりと答えないところがいつもの柊子らしくない。心配でどきどきする。
「済んだよ。時間が余ったから、ええと、散歩。柊子は?」
 柊子は地面に視線を落とした。
「うん……川崎さん、待ってた……」
 ここに来るまでずっと痛かった胸が、いっそう強くずきりとした。柊子の口にした名前が痛かったのか、柊子の気持ちが痛かったのかは、わからない。部活のことで悩んでいるんじゃないことにはほっとしたけれど、そっち方がよかったのかどうかも、わからない。
 そして、同時にふっと気づいていた。自分がお気に入りの藤棚じゃなくてここを目指した理由。ここは藤枝さんが私にフリースローを教えてくれた場所。痛む心をあのときの空気で癒したかったんだ。
 柊子が地面に向かって、ぽつり、ぽつり、と言葉をこぼす。
「川崎さん、昼休みにここで遊んでることがあるって、聞いたから。運が良ければ会えるかなあ、って……」
 それは、私が藤棚の下でスケッチしながら藤枝さんが通りかかるのを待っているのと同じ気持ちだろうか。
 偶然、会えたら、すごく嬉しい。だから、偶然を待っている。会いに行く勇気はなくて、待っている。
 ……部活動にも友達関係にも自分から積極的に動いていく柊子が、ぶりっこと評判の私と同じことをしているなんて、柊子のことをよく知らない人が知ったら、驚くかな。柊子と仲良くなる前の私だったら、きっと驚いた。柊子が、傷つきやすいけれどそれを他人に見せないようにがんばっていることを、私はもう知っているけど。
 だだ、今日は柊子に川崎さんと会える嬉しい『偶然』はない。だって──。
「……あのね、私が用事のあった美術部の先輩って、三年生なんだけど、午後の授業で体育祭の合同練習があるって、忙しそうだった。三年生全員、昼休みからグラウンドに集まるみたいで……」
 軽く目を見開いたあと、そっかあ、と柊子は苦笑いした。
「じゃあ、いくら待ってもここに来るわけ、なかったんだね」
「体育祭の実行委員会で、いっぱい会えるんじゃなかったの? ……川崎さんと」
 聞いてみた。柊子は九月初めに体育祭実行委員に選ばれたのだ。最初の委員会のあと、三年五組の実行委員はなんと川崎さんでした! いえーい。──って、ガッツポーズだったのに。
「三年生は、受験で大変だから、毎回は委員会に参加しないんだって。重大な議題があるときだけは出ることになっているけど、あとは出欠自由らしい」
 はあ。──柊子はため息をついて、続ける。
「私ってばさ、好きな人ができたら、がんがんコクっちゃうつもりだったんだけどなあ。当たって砕けろー、って」
 当たって砕けろ、と冗談っぽく笑って言いながら、柊子は拳を空に突き上げてみせる。それはとても柊子らしく見えたけれど。
 ……でも、できなかったんだ。一歩も踏み出せなくて、こんなところでひとりで空を見上げているんだ。来るかもしれない、来ないかもしれない人を待ちながら。
「そうだよね」
 と、呟いていた。
 傷つくのが怖いのとは、たぶん、少し違う。傷つくのも、もちろん、怖い。だけど、それとは違う。
 どちらにどう踏み出したらいいか、よくわからないんだ。偶然会えたら嬉しくて、会えなかったらさみしい。たったそれだけのことで心が大騒ぎする。知らない世界の入り口でうろうろしているだけみたい。当たって砕けて傷つく覚悟はできるけど、傷つき方もわからない。
 フリースローを教えてください、と藤枝さんに頼んだのは、私にとっては大事件だった。そのあと、一緒に帰りませんか、は言えなかった。
 いつかあの人に伝えられるときはあるんだろうか、私の気持ち。あの人──佐倉先輩の好きな人に。
 伝えたい気持ちは、胸にある。当たって砕けて、ふられてしまえば、佐倉先輩にも悪くないよね……なんて考えが浮かんだりもする。
 ──そうだよね、という私の呟きに対する柊子の返事は、しばらく待ってもなかった。
 どうしたのだろうと柊子を見ると、柊子の顔に浮かんでいた笑みがゆっくりと壊れていった。空に突き上げた拳も、揺れた視線も、膝の上にぱたりと落ちて、柊子は口を開く。
「私……私、ずっと美雨に聞きたいことがあってさあ……」
 柊子のこんなに心細そうな声の調子は、初めてだった。部活で陰口を言われていることを打ち明けたときだって、辛そうだったけど、こんなふうに寄る辺ない感じはなかった。
 私に聞きたいこと、って何だろう。私にわかることなら、何でも答えようと思う。──でも、もしも……。
「美術部の……佐倉さんって、どんな人?」
 あんまり意表をつかれて、すぐには答えられなかった。
「……どんなって……」
 なぜ、ここで、柊子の口から佐倉先輩の名前が出るんだろう。柊子は佐倉先輩の何を知りたいんだろう。
「いい人、だよ。優しいし、きれいだし、怒った顔とか見たことなくて……私、すごく好きだけど……」
 うかがうように柊子を見ると、私の困惑を読みとったみたいに、柊子は口許に少しだけ笑みを刷いた。
「その人、一年のとき、ちょっとだけ男バスのマネージャーをやっていたって話、知ってる?」
「……初耳」
 ──だった。でも、そう答えた瞬間、焼けるように一枚の写真が胸に浮かんだ。深いグリーンの揃いのジャージ、女の子は賞状を持って、男の子ふたりはメダルを掲げて。 
「その人と、川崎さんと藤枝さん……三人が中学から仲がいい、ってのは?」
 胸がどきどきする。痛いくらいにどきどきする。
「それは、うん、佐倉先輩に聞いたことがある……あ、腐れ縁だって、言ってたよ」
 ホントは自分も信じていない『腐れ縁』という言葉を急いで口にすると、柊子は、そう、と私から目を逸らす。
「……バスケ部の先輩からの、また聞きなんだけどさ」
 そう前置きしてから、柊子はもう一度頭上をふり仰いだ。九月とはいってもまだ烈しい真昼の日差しが、ベンチの隣に立つ木の厚い葉を透かして、柊子の顔に青く降る。
「佐倉さんって人、中学のとき、美術部と男バスのマネージャーを掛け持ちしていたんだって。高校でも最初はそうしようとしたんだって。男バスの部員はそれでおっけーだったみたい。もともと男子のマネがいて、その補助って感じだったらしい。試合のときとか、忙しいときに手伝いに来て、来たときはちゃんと仕事をしてくれるから、男マネも助かって、男バスの中ではそれでうまくいっていたみたいなんだよね。だけど……」
 制服のスカートのポケットがずんと重くなった気がした。そこにある裂かれた写真が。───写真の三人は中学生くらい。めちゃ楽しそうに笑っていて。
「文句をつけたのは、女バスの部員。みんな、じゃなくて、一部ね。隣のコートで同じバスケをやっていたって、違う部なんだから、口を出す筋合いはないのにさ。川崎さんと藤枝さんって、その頃から目立ってたらしいんだよね。タイプの違うかっこいい男子がふたり、仲良くて、バスケもうまくて、そりゃ目立つよね。その注目のふたりが、マネの補助に、って女の子を連れきて、他の部員にも可愛がられてるってのがさあ……目障り、っていうか、掛け持ちマネのくせにマスコットガール気取りでちやほやされてんじゃないよ、って言い出す人が女バスの中にいて……ときどきいるよね、そういう人。で、そういう人って、他のひとより声がでかくて、どうでもいい問題を大事にしちゃうんだよね」
 落ちてくる木漏れ日に眩しそうに目を細め、柊子が語るのは遠い昔話。
「高校生にもなっていじめもないもんだけどさ、くだらない嫌がらせ、やったみたいで。川崎さんや男バスの部員は、その女の子をかばうじゃない? そうするとますますやっかみがひどくなって、男バスと女バスの雰囲気も悪くなって、その上女バスの中でもいじめグループとそうじゃないグループでぎくしゃくしちゃって……それで、その人、男バスのマネージャーを辞めたんだって」
 柊子が口を閉ざすと、沈黙が薄いベールのように私たちを包んだ。
 長い物語だったんだ──心の深いところに沈んでいくような気持ちでそう考えていた。私が藤棚のベンチで藤枝さんに出会う前から、高校生になって美術部で佐倉先輩と知り合う前から、ずっと続いている物語があったんだ。
「美雨」
 呼ばれて、ハッとした。自分の思いから浮かび上がると、柊子は何かを訴えるような目で私を見ていて。
「佐倉さんって、誰かと、つきあっているのかなあ」
 柊子の声は少し震えている。誰かと──川崎さんと。それが、柊子が私にずっと聞きたかったこと。
「……誰とも、つきあってないと思う」
 下を向いて、私は言った。私の知る限りそれは事実で、ウソをついているわけではない。なのに、柊子の目を見つめ返すことができない。
 ポケットにある写真が石ころみたいに重たい。佐倉先輩が大切にしていただろう写真。川崎さんはそれをふたつに引き裂いた。佐倉先輩と藤枝さんの一片と、自分ひとりの一片に。
 そうなったのは、たまたま、だったんだろうか。
 花火まつりの夜のことも、思い出す。藤枝さんは、川崎さんに誘われて、と言っていた。誘われて、三人で、花火まつり。佐倉先輩を誘ったのは、誰だった?
 写真のことも、花火まつりのことも、どちらも柊子の知らないことだ。けれど、柊子は柊子で、私の知らないことを知っているのかもしれない。私が柊子に言えないことを抱えてしまったように、私には話せないことを、じっと心にしまっているのかもしれない。
「そっかあ……ごめんね、変なこと、聞いて」
 いっそ明るい声で口から出された柊子の言葉に、私は黙ってかぶりを振る。でも、柊子が続けた言葉に、ハッとする。
「私ねえ……川崎さんって、その人のことが、とっても好きだって気がするんだあ」
 その人って──佐倉先輩。そんな気がするんだ──柊子も。
 柊子は、最初にここで彼女を見つけたときのように、静かに空を見上げていた。柊子の視線に誘われて上を向くと、ベンチを日陰にしてくれている木の、茂った緑の隙間に青い空があった。たくさんの葉が、日差しを眩しく弾きながら風に一枚一枚かそけく動き、青空もちらちらと揺れている。
「……切ないなあ……」 
 空を見上げたまま、柊子が細くもらした声は、予鈴と一緒に、秋を触れる高い空へと消えていった。

 その日の放課後、美術室へ行くと、佐倉先輩が自宅に持ち帰っていた絵がイーゼルに架かっていた。佐倉先輩自身はまだ来ていなかったから、登校時に美術室に寄って置いていったのだろう。
 M10号──ざっと50センチ×30センチサイズのその絵は、完成に近づいているようだった。
 最後に美術室で見たときの佐倉先輩の絵は、緑のグラデーションの合い間合い間に淡い黄色が柔らかく滲んでいて、森かな、と私は想像していた。──木漏れ日の揺れる、明るい森のイメージ画。
 森、という想像は当たっていたと思う。
 ただ、久しぶりに見た森の片隅に、男の子がひとり現れていた。木漏れ日のそばに、淡く。
 歳は、十二か、三くらい? 長めの前髪が風に吹かれている。表情はぼかしてあるけれど、どこか遠くを見て笑っているようだ。風を纏うようなタッチで描かれている古代ギリシャ風の着衣は森に紛れそうな深いグリーン……。
 見たことのある色だ。私のポケットの中にある色。家に持ち帰るつもりでポケット深くに入れっぱなしにしている、破かれた写真。写っている三人が着ているおそろいのジャージは、深いグリーン。
「かわいー!」
 たまたま廊下で会って、一緒に美術室のドアを開けた同じ一年生部員の愛ちゃんが、その絵の前で高い声を上げた。
「これって森の妖精? 神様的なもの? かわいー。なんか、めるへーん」
「愛ちゃん」
 私は絵に顔を近づけている愛ちゃんを呼ぶ。愛ちゃんは、肩でパツンと切り揃えた真っ黒な髪をひらっとさせて、私をふり向く。私はにっこりと笑った。 
「私、やっぱり帰る。家で描きたくなっちゃった」
 愛ちゃんはちょっと怪訝な表情を見せたけど、深く気にするふうはなかった。そういう気まぐれは、美術部では珍しくなかったから。
「うん、がんばってね。ばいばーい」
 愛ちゃんはあっさり手を振る。
 私も愛ちゃんに手を振った。通学バッグを背負い、画材を抱えて美術室を出た。
 絵がここに置いてあるということは、佐倉先輩は、今日の放課後から、美術室で絵の仕上げにかかるつもりなのだろう。その佐倉先輩と平然と顔を合わせる自信が、今の私にはない。あんなことがあって、あんな話を聞いて、こんな絵を見たあとでは。

 森の絵でも、妖精の絵でもない。
 あの深いグリーンは、佐倉先輩の恋。




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