きんいろ
物語の終章
夜のうちに雨が降って、金木犀の花は一斉に散ってしまったようだった。街でも、校内でも、あちこちに小さなオレンジの絨毯が敷かれていた。
昼休みに丘を上ると、藤枝さんは古いバスケットコートでひとりでシュートを打っていた。
「藤枝先輩」
呼ぶと、ふり向き、まっすぐに笑顔をくれた。
私は、まだ乾ききらないコートの外で足を止め、ぺこり、と頭を下げた。
「ありがとうございました。フリースローのテスト、合格しました」
「どういたしまして。よかったね」
事無げな答えに顔を上げると、屈託なく可笑しそうな目が私を見ている。
「それを言いに、わざわざ来てくれたの?」
昨日、フェンスの外のすぐそこで川崎さんと言い争っていたくせに。あの一年──私のことも話していたのに。
私と向かい合っても、何事もなかったような平気な顔。
つまりはその程度の私に対する関心──無関心。
何か、酷いことを言いたくなった。この人の心を私に向けるためなら。
「あの、ひとりですか?」
「そうだけど?」
藤枝さんは不思議そうに聞き返す。
「よく一緒にいる、友達は」
ああ、と先輩はあくまで屈託ない。
「川崎のこと? 昨日、ケンカした」
少しの間、私は藤枝さんを見つめた。まっすぐな瞳はゆるがない。無垢な笑みは綻びない。
「佐倉先輩のことで、ですか」
震える声でそう言ったとき、初めてその表情が陰る。下を向き、二度、三度、ボールを地面にバウンドさせ、言った。
「木暮さんには関係ない」
「あります」
ふりしぼった声はかすれていた。
「私、藤枝先輩が好きだから……!」
返ってきたのは、拒絶でもなければ、驚きですらなかった。ただ、ただ、怪訝な表情。
「だって、木暮さんはサッカー部の──」
戸惑うように言いさして、ハッと息を飲む。まるで何か大事なことに思い当たったように。そして、ゆっくりと浮かぶ理解の色。開いたその口から出た言葉は──。
「佐倉のため?」
「……は──?」
あまりの見当違いに、うまく反応できなかった。中途半端な声が開いた口から出ただけで。
違う。私があなたを好きなの。
伝えたい気持ちが声にならない。想いを込めて放ったはずの言葉の矢が、見事に彼の心を外れて。
「そうか。木暮さんは佐倉と仲がいいんだったな。佐倉のことが、心配になったんだ?」
藤枝さんはすっかり納得したように、私を『先輩思いの後輩』を見る目で見ている。
全身の力が脱けてしまった。
ふられる覚悟はしていたけれど。
まさか、真に受けてもらえないなんて。
「座って話そう」
うつむいた私を促して、藤枝さんはコートの脇のベンチに誘った。降りつもったオレンジの花を軽く手で払って地面に落とし、先に座る。
私はうつむいたまま、藤枝さんの手が花を掃いた場所に腰を下ろした。
ベンチは──昨夜の雨のせいだろう──少し湿っていた。座ったとたん、制服のスカートに、ひとつふたつと金木犀の花が落ちてきた。
柊子とこのベンチに座ったときのことがふっと心をかすめた。あれはまだ日差しが暑い九月だった。緑の葉を繁らせて色褪せた青いベンチに涼しい木陰をプレゼントしてくれた大きな木は、金木犀だったのだ。
ベンチの上も周囲の土の上も、散ったオレンジ色の花でいっぱいだった。枝に残った花もほろりほろりと落ちてくる。藤枝さんと私を包む雨上がりの空気はむせかえるように甘い。
藤枝さんは膝に置いたボールに両腕をのせて指を組んだ。少しの間、何か考えるように沈黙していたけれど、私を見て、穏やかに聞いてくる。
「俺たちのこと、誰かに聞いたの?」
「……女バスの友達に……あと、佐倉先輩と話してて、何となく……」
「そうかあ」
私は思い切って顔を上げた。
「あの、佐倉先輩とつきあえないのは、友達の好きな相手だからですか?」
ああ、こんなことを聞いたらますます先輩思いの後輩になっちゃう──と思ったけれど。
「はっきり聞くなあ」
先輩に苦笑され、私は赤くなる。こんな明け透けな質問をするなんて、生まれて初めての告白が空振りしたショックで、ちょっと突き抜けちゃったのかもしれない。
「──すみません」
「いや、いいよ。話しやすい。答えはノーだよ」
何のためらいもない、明快な口調だった。
「本気で好きだったら、そんなこと、関係ないんじゃないかな。友達に遠慮できるくらいの気持ちなら、所詮それだけの気持ち──って思うけど、どう?」
急にふられて、うっかりこくんと頷いてしまい、うろたえる。
「あ……でも、そういう経験ないので……よくわからないですけど……あの……」
経験がない? 友達の好きな人を好きになったことはない。でも、私、先輩の好きな人を好きになっていた。もしも、その人が私の気持ちに応えてくれていたら、私は先輩に遠慮しただろうか。
しない、気がした。
黙ってしまった私に、藤枝さんは笑う。
「そういえば、俺も経験ない。けど、そうなったら、好きになっちゃったんだからしょうがない、って開き直るな、きっと」
開き直る、って言葉がちょっと可笑しくて、私も少し笑ってしまった。
そういえば、拓南とのことで悪口を言われたとき、私は言い返したことがない。言い返してケンカになる勇気がなかったから、聞き流すようにしていた。でも、拓南と仲良くすることはやめなかったから、悪口を言う女の子たちは私のことを『開き直っている』とさらに責めたんだ。
ああ、そうか、私、開き直っていたんだ。拓南と私は仲がいいんだからしょうがないじゃない、って。私、自分では大人しいつもりだったけれど、実はふてぶてしかったんだ。ふてぶてしい、ぶりっこ。
そんなぶりっこなら悪くない気がした。これからも、ぶりっこ、貫いちゃおうかな。悪口を言われても言い返さないけれど、私は私で、開き直って変わらない。
ふと思いついたことを口にした。佐倉先輩とつきあえない理由が『友達の好きな人』じゃないなら──。
「もしかして、他に好きな人がいるんですか?」
あとで思い出したら、次々とよく聞けたなあ、なんて自分に呆れ果てたけど。
「いないなあ、今は」
これも即答。今はいない──前はいたのかなあ、と気になったけれど、でも、もし、今、好きな人がいないのなら。
「あの、だったら、とりあえず佐倉先輩とつきあってみよう、とかは、だめなんですか? 佐倉先輩とはずっと仲のいい友達で……だから、嫌いじゃないんですよね?」
だって、友達の話だと、そうやってつきあい始めるカップルも多いらしい。コクハクされて、とりあえずタイプだったから、一応つきあってみた、とか。それで、案外うまくいくこともあるらしい。
だけど。
「とりあえず、かあ」
そのとき彼が浮かべた笑みは、まったく無邪気に我が儘な少年のそれだった。とりあえず、一応──そんな言葉とは一切無縁な。
「できないなあ」
彼はボールを持って立ち上がると、軽くドリブルしながらコートに入った。遠い位置から、ゴール目がけてシュートを打った。
しなやかに伸びた腕から放たれたボールが、パサッ、とネットを割る。
ボールの軌跡を追った目に太陽の光が入って、私は固く瞼を閉じた。
閉じた瞳には、彼の笑顔が灼きついていた。
わかった、と思った。
よく、わかった。この人は自分の気持ちをたわめない。この人の気持ちは伸びたい方へ伸びていく。傷つくことからも傷つけることからも逃げないで。
そして、この人の心の先に私はいない。佐倉先輩も、いない。
ふられることはできなかったけれど、私の恋はきちんと砕けた。
落ちたボールを拾って、藤枝さんは私のところへ戻ってきた。我が儘な少年の笑みは消えて、十八歳の、少しだけ大人の顔をして。
「気を使わせて、悪かった」
真面目に私を見て、言った。
「そうだな。佐倉のことも川崎のことも、俺が悪かったかな……。けど、これは俺たちの問題だから」
私は頷いた。
まっすぐに澄んだ瞳を見返して。
この瞳が、好きだった。初めて見たときから──。
最後に尋ねてみた。──花火まつりのとき、どうして私の名前を知っていたんですか。
クラスメイトが騒いでいたから、と彼は笑った。今年の一年に髪の茶色い可愛い女子がいる。だけど、くそう、サッカー部のルーキーのカノジョらしい──名前は、木暮美雨。
私は微笑みを返した。コートを後にする彼を、ベンチに座ったまま見送った。
昼休みに丘を上ると、藤枝さんは古いバスケットコートでひとりでシュートを打っていた。
「藤枝先輩」
呼ぶと、ふり向き、まっすぐに笑顔をくれた。
私は、まだ乾ききらないコートの外で足を止め、ぺこり、と頭を下げた。
「ありがとうございました。フリースローのテスト、合格しました」
「どういたしまして。よかったね」
事無げな答えに顔を上げると、屈託なく可笑しそうな目が私を見ている。
「それを言いに、わざわざ来てくれたの?」
昨日、フェンスの外のすぐそこで川崎さんと言い争っていたくせに。あの一年──私のことも話していたのに。
私と向かい合っても、何事もなかったような平気な顔。
つまりはその程度の私に対する関心──無関心。
何か、酷いことを言いたくなった。この人の心を私に向けるためなら。
「あの、ひとりですか?」
「そうだけど?」
藤枝さんは不思議そうに聞き返す。
「よく一緒にいる、友達は」
ああ、と先輩はあくまで屈託ない。
「川崎のこと? 昨日、ケンカした」
少しの間、私は藤枝さんを見つめた。まっすぐな瞳はゆるがない。無垢な笑みは綻びない。
「佐倉先輩のことで、ですか」
震える声でそう言ったとき、初めてその表情が陰る。下を向き、二度、三度、ボールを地面にバウンドさせ、言った。
「木暮さんには関係ない」
「あります」
ふりしぼった声はかすれていた。
「私、藤枝先輩が好きだから……!」
返ってきたのは、拒絶でもなければ、驚きですらなかった。ただ、ただ、怪訝な表情。
「だって、木暮さんはサッカー部の──」
戸惑うように言いさして、ハッと息を飲む。まるで何か大事なことに思い当たったように。そして、ゆっくりと浮かぶ理解の色。開いたその口から出た言葉は──。
「佐倉のため?」
「……は──?」
あまりの見当違いに、うまく反応できなかった。中途半端な声が開いた口から出ただけで。
違う。私があなたを好きなの。
伝えたい気持ちが声にならない。想いを込めて放ったはずの言葉の矢が、見事に彼の心を外れて。
「そうか。木暮さんは佐倉と仲がいいんだったな。佐倉のことが、心配になったんだ?」
藤枝さんはすっかり納得したように、私を『先輩思いの後輩』を見る目で見ている。
全身の力が脱けてしまった。
ふられる覚悟はしていたけれど。
まさか、真に受けてもらえないなんて。
「座って話そう」
うつむいた私を促して、藤枝さんはコートの脇のベンチに誘った。降りつもったオレンジの花を軽く手で払って地面に落とし、先に座る。
私はうつむいたまま、藤枝さんの手が花を掃いた場所に腰を下ろした。
ベンチは──昨夜の雨のせいだろう──少し湿っていた。座ったとたん、制服のスカートに、ひとつふたつと金木犀の花が落ちてきた。
柊子とこのベンチに座ったときのことがふっと心をかすめた。あれはまだ日差しが暑い九月だった。緑の葉を繁らせて色褪せた青いベンチに涼しい木陰をプレゼントしてくれた大きな木は、金木犀だったのだ。
ベンチの上も周囲の土の上も、散ったオレンジ色の花でいっぱいだった。枝に残った花もほろりほろりと落ちてくる。藤枝さんと私を包む雨上がりの空気はむせかえるように甘い。
藤枝さんは膝に置いたボールに両腕をのせて指を組んだ。少しの間、何か考えるように沈黙していたけれど、私を見て、穏やかに聞いてくる。
「俺たちのこと、誰かに聞いたの?」
「……女バスの友達に……あと、佐倉先輩と話してて、何となく……」
「そうかあ」
私は思い切って顔を上げた。
「あの、佐倉先輩とつきあえないのは、友達の好きな相手だからですか?」
ああ、こんなことを聞いたらますます先輩思いの後輩になっちゃう──と思ったけれど。
「はっきり聞くなあ」
先輩に苦笑され、私は赤くなる。こんな明け透けな質問をするなんて、生まれて初めての告白が空振りしたショックで、ちょっと突き抜けちゃったのかもしれない。
「──すみません」
「いや、いいよ。話しやすい。答えはノーだよ」
何のためらいもない、明快な口調だった。
「本気で好きだったら、そんなこと、関係ないんじゃないかな。友達に遠慮できるくらいの気持ちなら、所詮それだけの気持ち──って思うけど、どう?」
急にふられて、うっかりこくんと頷いてしまい、うろたえる。
「あ……でも、そういう経験ないので……よくわからないですけど……あの……」
経験がない? 友達の好きな人を好きになったことはない。でも、私、先輩の好きな人を好きになっていた。もしも、その人が私の気持ちに応えてくれていたら、私は先輩に遠慮しただろうか。
しない、気がした。
黙ってしまった私に、藤枝さんは笑う。
「そういえば、俺も経験ない。けど、そうなったら、好きになっちゃったんだからしょうがない、って開き直るな、きっと」
開き直る、って言葉がちょっと可笑しくて、私も少し笑ってしまった。
そういえば、拓南とのことで悪口を言われたとき、私は言い返したことがない。言い返してケンカになる勇気がなかったから、聞き流すようにしていた。でも、拓南と仲良くすることはやめなかったから、悪口を言う女の子たちは私のことを『開き直っている』とさらに責めたんだ。
ああ、そうか、私、開き直っていたんだ。拓南と私は仲がいいんだからしょうがないじゃない、って。私、自分では大人しいつもりだったけれど、実はふてぶてしかったんだ。ふてぶてしい、ぶりっこ。
そんなぶりっこなら悪くない気がした。これからも、ぶりっこ、貫いちゃおうかな。悪口を言われても言い返さないけれど、私は私で、開き直って変わらない。
ふと思いついたことを口にした。佐倉先輩とつきあえない理由が『友達の好きな人』じゃないなら──。
「もしかして、他に好きな人がいるんですか?」
あとで思い出したら、次々とよく聞けたなあ、なんて自分に呆れ果てたけど。
「いないなあ、今は」
これも即答。今はいない──前はいたのかなあ、と気になったけれど、でも、もし、今、好きな人がいないのなら。
「あの、だったら、とりあえず佐倉先輩とつきあってみよう、とかは、だめなんですか? 佐倉先輩とはずっと仲のいい友達で……だから、嫌いじゃないんですよね?」
だって、友達の話だと、そうやってつきあい始めるカップルも多いらしい。コクハクされて、とりあえずタイプだったから、一応つきあってみた、とか。それで、案外うまくいくこともあるらしい。
だけど。
「とりあえず、かあ」
そのとき彼が浮かべた笑みは、まったく無邪気に我が儘な少年のそれだった。とりあえず、一応──そんな言葉とは一切無縁な。
「できないなあ」
彼はボールを持って立ち上がると、軽くドリブルしながらコートに入った。遠い位置から、ゴール目がけてシュートを打った。
しなやかに伸びた腕から放たれたボールが、パサッ、とネットを割る。
ボールの軌跡を追った目に太陽の光が入って、私は固く瞼を閉じた。
閉じた瞳には、彼の笑顔が灼きついていた。
わかった、と思った。
よく、わかった。この人は自分の気持ちをたわめない。この人の気持ちは伸びたい方へ伸びていく。傷つくことからも傷つけることからも逃げないで。
そして、この人の心の先に私はいない。佐倉先輩も、いない。
ふられることはできなかったけれど、私の恋はきちんと砕けた。
落ちたボールを拾って、藤枝さんは私のところへ戻ってきた。我が儘な少年の笑みは消えて、十八歳の、少しだけ大人の顔をして。
「気を使わせて、悪かった」
真面目に私を見て、言った。
「そうだな。佐倉のことも川崎のことも、俺が悪かったかな……。けど、これは俺たちの問題だから」
私は頷いた。
まっすぐに澄んだ瞳を見返して。
この瞳が、好きだった。初めて見たときから──。
最後に尋ねてみた。──花火まつりのとき、どうして私の名前を知っていたんですか。
クラスメイトが騒いでいたから、と彼は笑った。今年の一年に髪の茶色い可愛い女子がいる。だけど、くそう、サッカー部のルーキーのカノジョらしい──名前は、木暮美雨。
私は微笑みを返した。コートを後にする彼を、ベンチに座ったまま見送った。