通り雨、閃々
「ミクちゃん、俺のシャンプーの匂いがする」
私の首筋に顔を寄せてリョウは言う。
手元に集中するあまり近づき過ぎていた。
反射的に飛び退いて、首や髪をこする。
「……今朝、シャワー借りたもん」
「知ってる」
「じゃあ、当たり前でしょ」
「同じシャンプーなのに、俺とは匂いが違う。なんかいいね」
顔色ひとつ変えずにそんなことを言い放って、竿を差し出す。
私は乱暴に受け取って乱暴に投げた。
これじゃあイワナは寄りつかないだろう。
こっそり襟元に鼻を近づけると、確かにいつもとは違う匂いがした。
けれど、リョウのあの早春の朝のような匂いはしない。
あれは香水か何かなのかもしれない。
「そんなところにいても釣れないよ。海と違って魚見えるんだからさ、こっち来なよ」
リョウから距離を取っていたら、どんな匠でも釣れそうにないほど魚影の見えない場所にいた。
ミクちゃんが釣ったら終わりね、と竿をしまうので、リョウがいた場所に移る。
「これ、釣ったら食べるんだよね?」
「そうだよ」
「私、魚捌けない」
「俺やる」
「できるの?」
「たぶん」
竿が呼ばれたような気がして、引っ張ると抵抗する重みを感じた。
「え! やだ! これ、どうするの?」
「引っ張って」
「無理無理! 重いもん!」
「頑張れ頑張れ。針からはずすのはやってあげる」
イワナが水面に現れると、それまでと重みが変わった。
振り回されるように情けない姿で、なんとか芝生の上に放り出す。
「はい、おめでとー」
クツクツと笑いながらも、約束通りリョウが針からはずしてバケツに入れてくれた。
狭いバケツの中で、イワナは大きくひと跳ねする。
「……初めて釣った」
「それが聞けて俺は満足」
本当に満足げに笑うと、リョウはバケツを持って事務所の方へ歩き出す。
竿と餌を持って、私も続いた。
手際がいいとはお世辞にも言えないけれど、リョウはゆっくり丁寧にイワナを捌いていった。
腹に包丁を入れて内臓を取り出し、食道を切って、血合を擦り取る。
左手にはめた軍手は真っ赤だった。
「私も、もっと料理とかしようかな」
「なんで?」
「一応女だし」
「男とか女とか関係ないでしょ」
「そうかなぁ?」
「男とか女とか関係なく、できた方がいいに決まってるよね、料理も掃除も裁縫も」
憮然として横を向いたら、リョウは声色を変えた。
「料理できてもできなくても、ミクちゃんが女であることは俺がよく知ってるよ」
思わず顔を見るとギラリと目を光らせたので、何度も首を横に振った。
リョウは肩を揺らして笑う。
からかったことは明白であるけれど、うっかり強気に出たら何を言われるかわからないので、それ以上深入りしないことにした。