【完結】終わった恋にフラグはたちません!
それは、私がこの部屋に来て初めて聞いた声だった。その声の主は “松下 双葉”……ここのアシスタントで唯一の女性スタッフだ。
「いきなりどしたの、ふたばっち?」
「あ、いえ……ただ、ここの掃除や皆さんの料理など、身の回りのことは私がやっているので、ふ、二人もいらないのではないかと思いまして……」
彼女はしどろもどろに話しながらも、何とか自分の思いを伝えているように見えた。
松下 双葉。── 大人しそうな見た目で小柄の彼女は、長い黒髪を二本に結び分厚い眼鏡をかけている。そのせいか顔の表情がなかなか読み取りにくい。
「双葉ちゃんは背景担当なんだけど、その他にいつも僕達のご飯や部屋の掃除もしてくれてね、とっても助かってるんだ」
優しげな物言いで、また私の耳元に語りかける澪先生。その声を聞くと昔にタイムスリップするみたいで何だか落ち着かない。
「じゃ、じゃあ私やっぱりここでは必要ないみた、ぃ……」
すぐ横にいる澪先生に話しかけながら振り向くと、そこには同時に私の方へ顔を向ける澪先生が……。お互いが近距離で見つめ合う形になってしまったのだ。
それこそ、キスでもしてしまいそうな距離感で──
目線を外さなきゃと思うのに、どんな髪型でも身なりボロボロでも無精髭でも、元がいいとやっぱりカッコいい……その上、澪先生は優しげな笑顔を私に向けてくる。
「ウ、ウホォンッ!」
誰の咳払いか、そのアクションのおかけで私は我に返り慌てて顔を背ける。
顔が熱い……なんで今更ゆうちゃんの顔を見て火照らなきゃいけないの? こんなの他の人が見たら未練ありありだと思われるじゃない!
他の人に顔の赤さを指摘されない為、私はオーバー気味に口元を必死に押さえる。──そして少しだけ横目で見る澪先生は変わらず涼しげな顔。
……まぁ、当たり前よね。今更、元嫁にトキメかないわよね。
「──でもね。彼女が身の回りのことをしてくれたら、きっと双葉ちゃんはもっと仕事に打ち込めると思うんだ。……双葉ちゃんは僕の仕事にはいなくちゃならない人材だからね」
うわぁ─ ……こういう所は変わらず口が上手い。そんなこと言ったら大抵の女性はあなたにとろけてしまうんだから。
「そんな……勿体ないお言葉です、先生。でも、先生がそこまでおっしゃるのなら、立木さんに私の役割お譲りしますね」
なぜか先程と口調が変わっている松下さん。案の定顔がポーとしてほんのり頬がピンク色になっている。
ほらね、この場面……昔、何度見たことあるか。ゆうちゃんは誰にでも優しいけど、その優しさは勘違いを生みやすいのよ。──って、そうじゃなくて何で私が譲られてる形になっているのよ?!
「ほら、じゃあ決定─。 伊織は早速今日からうちに来てね!」
「で、でも私はまだ了承したわけでは……」
「──で、今日は泊まるところ決まってるの?」
「うっ……まだ、ですけど」
「新しい異動先で覚えることもいっぱいだろうねぇ─。これから住むところとか探す時間はあるの?」
「………………な、ぃ、かな?」
「はい、今度こそうちに決定─!」
私に向かってニコニコ笑う澪先生は何だか上機嫌。そしてその様子を無言で伺っているアシスタント達。
なんだ……この敗北感。本当にゆうちゃんってこんな強引な感じだったっけ?
「伊織っち、これからよろしくぅ─!」
「うっす……」
「お世話になります。それから澪先生のことは何でも私にお聞きください!」
「は、はぁ……」
アシスタント達に感激されているのか、されていないのかわからないが──
「よ、宜しく……お願い、します」
こうなってしまった以上、先生を全力でサポートして更なる売上アップを目指すしか選択肢はなくなった。
それに、同居したところで何かあるわけじゃない……ゆうちゃんはただの大屋さんみたいなものなのだから──