【完結】終わった恋にフラグはたちません!
「──澪、先生?」
布みたいなものに覆い被さっていてよく聞こえてない私の耳にも、石川君のその言葉はなんとか聞き取ることができた。
どうやら私は今、澪先生に頭から何かを被らされ後ろからハグされているよう。
「石ちゃん。電車、早めに乗らないと混んできちゃうよ」
「あ、あのぉ! ゆう……澪先生!? ちょっとこれ取ってもらえませんか? それに重たいんですけど!」
暗くて視界を奪われている中、聴覚でしか今の状況を把握できない。唯一聞こえてくるのは澪先生と石川君の会話……と少しの沈黙?
「あ……そ、そうですね。じゃあ、俺はこれで失礼します」
「え、あれ、石川君?」
自分の耳に聞こえてくるのは、石川君が自分の鞄を手に取り急いでリビングを出て行く足音、それに扉を閉める音。
そして石川君が出て行くのを確認したかのように澪先生は私の両肩から腕をどけ、私はようやく覆い被せられている物から顔を出すことができたのだ。
「ちょっとゆうちゃん! いきなり苦しいじゃない」
文句を言いながら顔を出したその瞬間。
顔に感じるひんやりとした冷気に体が少し震えてしまった。
え……この部屋、こんなに寒かったっけ?
「ほら。暖かくなってきたとは言え朝はまだ冷えるんだから。それに伊織、風邪引きやすいし……」
そう言ったゆうちゃんは少し疲れた顔でリビングの方へ戻り、小さな溜め息と共にドサッと勢いよくソファーへと座る。
気づくと私の肩に覆われていたのは大きめのカーディガン。きっとゆうちゃんのものなのだろう……鼻に漂ってくるのは甘くてとても安心する懐かしい香り。
「こ、こんなことじゃ今は風邪なんてひきません─。これでも強くたくましく生きてきたんだから!」
せっかくカーディガンをかけてくれたゆうちゃんの厚意に、どうして私はまた可愛げのないことを言ってしまうのだろう。“ありがとう”の一言も言えないなんて。
「それでも伊織は女の子なんだから、体は冷やしちゃダメだろ」
「…………」
今更……甘い言葉なんかかけないでよ。
私の心はずっと、ゆうちゃんの何気ない一言で過去と現在を行ったり来たりで忙しいのに、甘い言葉まで囁かないでよ……
「そういえば伊織。明日、誕生日だったよね? 僕も仕事が一段落したし、二人でどこか食事にでも行かない」
「え、ゆうちゃん。私の誕生日覚えてたの?」
「あ─……たまたま、まきちゃんに聞いてさ」
「……そう、なんだ」
あれ? でも私、巻さんに誕生日のこと伝えてたっけ?
「それにまだ全然10:0になってないし、今のままだとイケメン俳優にムラムラッ─っていっちゃうかもよ─」
さっきまで疲れながらも真剣な顔つきで話していたのに、今はもういつものからかってばかりのゆうちゃんに戻っている。その中で私はゆうちゃんに一つの交換条件を申し出てみたのだ。
「ゆうちゃん。私に出来るかわからないけどゆうちゃんの気持ち、10:0になるようやってみる。──でもその代わりそれができた時は、八年前の離婚理由を聞かせてほしい」
一番聞きたくない言葉……でもずっと一番知りたい言葉でもあったのだ。八年前、結局最後まで理由を明かさなかったゆうちゃん、私も深く追及はしなかった。
……でも結局は、それがわからないと次の恋愛もちゃんと前に進めないような気がした。それに、ゆうちゃんのことをどこかちゃんと吹っ切れていない自分がずっといる。
「わかった、伊織。……でもイケメン俳優との対談まであと三週間しかないよ。それまでに10:0にで……き……」
言葉を言い終える前に、ゆうちゃんは驚きという感情が一気に体中を駆け巡り固まってしまった。それは、私が予想外の動きをしたからだ。
さっきとは逆に、今度はソファーに座っているゆうちゃんを私が後ろから抱きしめ、耳元で息を吹き掛けるように囁く。
「カーディガンありがとう、ゆうちゃん。明日の食事、楽しみにしてるね」
「え、あ、い、伊織?!」
「あ─……私そろそろ仕事の準備しなきゃ! じゃ、ゆうちゃんまた」
動揺するゆうちゃんを余所目に私は急いで自分の部屋へと戻る。普段はしない自分の行動への恥ずかしさに私はそのままベッドへと倒れこんでしまった。
まるで駆け引きみたいなことをしているのはわかっている。
でも、テクニックも女子力もない私はこの時、変な闘争心に燃えていたのだった。