初恋ディストリクト
 ◇栗原智世の時間軸

 辺りは暗く、冷え込んできた寒さで体がぶるっと震える。

 お腹が空き切って体もだるい。

 俯き加減にダラダラ歩きながらやっとの思いで家にたどり着いた。

 ドアを開け、ただいまの代わりに、まずはため息が出てしまう。

 玄関先に母がスリッパのパタパタする音を立ててやってきた。

「智ちゃん、一体どこに行ってたの。連絡もないから心配したのよ。それでマスク買えた?」

 そうだマスク。
 そんなことすっかり忘れてた。

 私は首を横に振る。

「もしかして、遠くまで行ってかなり探し回ってくれたの? お母さんもね、やっぱり手に入らなかったのよ。もう、ほんと困ったわ。まあいいわ。さあ、とにかくまずは手を洗ってきてよ。すぐご飯にしよう」

 そういって家の奥へと入っていく。

 何も知らないとはいえ、能天気なお母さんの態度が鼻につく。

 世間がどんな状態であろうと、今の私にはどうでもいいことに感じる。

 たとえそこに危険があったとしても、この喪失感が全てを跳ね除けていた。

 あれだけお腹が空いていたというのに、食欲すら湧かない。

 感覚が麻痺して足が地についているかさえおぼろげだ。

 何をどう考えたらわからないほど、自分の周りがぐにゃぐにゃして見ているものが本当に正しいのかすら自信が持てない。

 洗面所で手を荒い、鏡に映る自分を見れば、その鏡の中にすら別の世界があるように思えた。

 果たして今自分が居る場所は現実なのだろうか。

 疲れきった顔をしている私。

 口角を無理に上げてみる。

 頬の筋肉を指で持ち上げ、歯だけ見せても笑っている風には見えなかった。

「でもこういうときこそ笑うべきなんだよね、澤田君」

 名前を呟くとじわっと目が熱くなって、視界がぼやける。

 おぼろげにみる悲しげな自分の顔。

 もっていきようのない気持ちに泣き崩れそうになっていると、足元で福が頭をぶつけてすりすりしてきた。

 そこではっとした。

「福ちゃん。もしかしたら澤田君に餌もらったことあるんじゃないの」

 猫を抱き上げ、顔を合わせる。

 澤田君との唯一の接点。

 間接に澤田君を感じたかったのに、福はじっと見つめる私の目がいやで逸らしていた。

 そのうちクネクネと体を動かして、ニャーと不機嫌に鳴いて本気で嫌がりだす。

 仕方ないので下ろしてやった。

 そのとたん、私を見捨ててすばしっこく去っていった。

「福ちゃんのバカ」

 つい八つ当たりしてしまった。

 そして無性に泣けてきた。
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