はじまりのワルツ
星降堂から帰った日の夜、ちょっとした事件が起きた。事件、というほどではないのかもしれないが。
夏芽と言い合いになった。
事の発端は、秋月さんが貸してくれたあの楽譜だ。
私はそれを、ピアノの上に重ねて置いていた。
仕事から帰った夏芽が、それに触った。
「何、どうしたの。こんなたくさん」
楽譜の束から、夏芽は一番上にあったものを手に取り、パラパラとページを捲った。すると、古くなっていたページがバラけて床に散らばった。
「うわ、何だよこれ。汚えな」
「——ちょっと! やめてよ、触らないでっ」
私はキッチンカウンターから飛び出して、夏芽を押しのけた。夏芽はよろけて、そばにあったソファに軽く身をぶつけたが、私は彼に構わず床に膝をついて、散らばったページを一心不乱に一枚ずつ拾い集め、楽譜の束をきゅっと抱き締めた。
「え。何、お前。どういうつもり?」
夏芽の声がいつもより低くなる。顔を見なくても、怒っているのがわかった。夏芽が私のことを「律子」ではなく「お前」と呼ぶ時は、決まって機嫌の悪い時なのだ。
「夫を突き飛ばすとか、あり得ないんだけど。俺よりその汚い紙が大事なワケ?」
「……だったら、何?」
私も、負けじと応戦した。
「これは人から借りた大事なものなの。あなたにはわからないだろうけど、その人の努力の結晶なの。それを勝手に触っておいて、汚いだなんて失礼なこと言わないで!」
これは、秋月さんが一生懸命練習した後がたくさん残っている、秋月さんの財産だ。中身を見て、その書き込みの多さに私は驚いた。これだけの努力があって、今の彼がいる。あの柔らかい笑顔の裏で、一体どれだけ努力をしたのだろう、と考えるだけで、胸が締め付けられた。
夏芽になんか、触れてほしくない。
夏芽はそれ以上、何も言わなかった。
冷めた目で一言、あっそ、とだけ口にして、そのまま夕飯もとらずに部屋にこもり、一晩中ゲームに興じた。
最低だ。夏芽じゃない——私がだ。
秋月さんのことになると、冷静でいられなくなっている。秋月さんと出会ってから、ずっとあの笑顔に、声に、指先に、捕らわれている。
こんなの駄目だ。
こんなの私らしくない。
こんなの、まるで——あの頃の母みたいだ。
*****
——ねえ、りっちゃん。秋くんのこと好き?
——うん! 大好き!
——そう、良かった。じゃあ、秋くんがりっちゃんのお父さんになったら、嬉しい?
——おとうさん……?
——そうよ。りっちゃんの新しいお父さん。お母さんと、秋くんと、りっちゃんの三人で新しい家族になるの。
——嫌
——え?
——そんなの嫌。律子のお父さんは、お父さんだけだもん。秋くんは秋くんだもん。新しいお父さんなんかいらない!
夏芽と一悶着あった夜、夢を見た。すごく昔の夢。あれは丁度、秋くんがレッスンに通い始めた頃だ。
忘れたようで、忘れていなかった。
知らなかっただけで、あの時からもう母と秋くんはそういう関係だったのだ。そして、私の言葉にきっと母は絶望したのだろう。その数年後、私はあの呪いの言葉をかけられることになるのだ。
私だって、秋くんのことが大好きだったのに。
あの頃の母には、きっと秋くんしか見えていなかったのだろう。父も、私も、秋くんの前ではとるにたらない存在だったのだろう。
私はあんな風にはなりたくない。ずっとそう思って生きてきたのに。
夏芽と言い合いになった。
事の発端は、秋月さんが貸してくれたあの楽譜だ。
私はそれを、ピアノの上に重ねて置いていた。
仕事から帰った夏芽が、それに触った。
「何、どうしたの。こんなたくさん」
楽譜の束から、夏芽は一番上にあったものを手に取り、パラパラとページを捲った。すると、古くなっていたページがバラけて床に散らばった。
「うわ、何だよこれ。汚えな」
「——ちょっと! やめてよ、触らないでっ」
私はキッチンカウンターから飛び出して、夏芽を押しのけた。夏芽はよろけて、そばにあったソファに軽く身をぶつけたが、私は彼に構わず床に膝をついて、散らばったページを一心不乱に一枚ずつ拾い集め、楽譜の束をきゅっと抱き締めた。
「え。何、お前。どういうつもり?」
夏芽の声がいつもより低くなる。顔を見なくても、怒っているのがわかった。夏芽が私のことを「律子」ではなく「お前」と呼ぶ時は、決まって機嫌の悪い時なのだ。
「夫を突き飛ばすとか、あり得ないんだけど。俺よりその汚い紙が大事なワケ?」
「……だったら、何?」
私も、負けじと応戦した。
「これは人から借りた大事なものなの。あなたにはわからないだろうけど、その人の努力の結晶なの。それを勝手に触っておいて、汚いだなんて失礼なこと言わないで!」
これは、秋月さんが一生懸命練習した後がたくさん残っている、秋月さんの財産だ。中身を見て、その書き込みの多さに私は驚いた。これだけの努力があって、今の彼がいる。あの柔らかい笑顔の裏で、一体どれだけ努力をしたのだろう、と考えるだけで、胸が締め付けられた。
夏芽になんか、触れてほしくない。
夏芽はそれ以上、何も言わなかった。
冷めた目で一言、あっそ、とだけ口にして、そのまま夕飯もとらずに部屋にこもり、一晩中ゲームに興じた。
最低だ。夏芽じゃない——私がだ。
秋月さんのことになると、冷静でいられなくなっている。秋月さんと出会ってから、ずっとあの笑顔に、声に、指先に、捕らわれている。
こんなの駄目だ。
こんなの私らしくない。
こんなの、まるで——あの頃の母みたいだ。
*****
——ねえ、りっちゃん。秋くんのこと好き?
——うん! 大好き!
——そう、良かった。じゃあ、秋くんがりっちゃんのお父さんになったら、嬉しい?
——おとうさん……?
——そうよ。りっちゃんの新しいお父さん。お母さんと、秋くんと、りっちゃんの三人で新しい家族になるの。
——嫌
——え?
——そんなの嫌。律子のお父さんは、お父さんだけだもん。秋くんは秋くんだもん。新しいお父さんなんかいらない!
夏芽と一悶着あった夜、夢を見た。すごく昔の夢。あれは丁度、秋くんがレッスンに通い始めた頃だ。
忘れたようで、忘れていなかった。
知らなかっただけで、あの時からもう母と秋くんはそういう関係だったのだ。そして、私の言葉にきっと母は絶望したのだろう。その数年後、私はあの呪いの言葉をかけられることになるのだ。
私だって、秋くんのことが大好きだったのに。
あの頃の母には、きっと秋くんしか見えていなかったのだろう。父も、私も、秋くんの前ではとるにたらない存在だったのだろう。
私はあんな風にはなりたくない。ずっとそう思って生きてきたのに。