はじまりのワルツ
 夏芽のいない昼間が好きだ。
 陽当たりの良いリビングには、開け放した窓からぬるい風が入ってきて、一つに束ねた髪の先を揺らす。何も考えずにいられたらいいのに、ここのところ鍵盤に触れると秋月さんの顔が浮かぶようになった。
 
 夏芽とは、あれから冷戦状態だ。元々会話の多い夫婦ではなかったが、さらに拍車を掛けた。でもいい加減、このままでは駄目だとも思っている。私も少しムキになって言い過ぎたし、夏芽を突き飛ばしたのは確かに良くなかった。
 気分転換に、またあの楽器店へ行くことにした。花のワルツが完成したら、次は何を弾こうか。楽譜を眺めながら考えよう。
 
 バスを降りて歩いていると、楽器店から出てきた星さんとばったり出会した。
 
「星さん、こんにちは」
 私が声をかけると、星さんは人の良い笑顔を向けてきた。
「やあ、律子ちゃん。こんにちは」
「あの、この間はありがとうございました。突然お邪魔したのにお茶までご馳走になってしまって」
「いえいえ、何もお構いできなくてごめんね。アキのやつ、お客さん連れてくるなら事前に言ってくれたらいいのに。ねえ?」
 親子ほど歳の離れているであろう星さんは、私に対してフランクな口調で話してくる。夫以外の人に下の名前で呼ばれたのはずいぶんと久しぶりだけど、歳上なのと星さんの持つ人柄のお陰で、ちっとも嫌らしい感じはしない。
 
「あの、秋月さんは今日お店にいらっしゃいますか?」
「アキ? いや、今日は……というか、今週は出張に出ていてね。僕一人なんだ。アキに何か用だった?」
 私は、ページがバラバラになったあの楽譜のことを思い浮かべる。不可抗力とはいえ、秋月さんに謝らなければいけない。
 星さんに掻い摘んでそのことを話すと、彼は手をひらひらと左右に振って笑った。
 
「何だ、そんなこと。大丈夫だよ、気にしなくても」
「でも……」
 そうは言っても、秋月さんの大切な楽譜を壊してしまったことに変わりはない。
 私が難しい顔をしていると、星さんは唐突に「律子ちゃん、ちょっと付き合って」、と言って私を先導するように歩き出した。
 
 
 星さんに連れられてやって来たのは、楽器店から少し歩いた商店街にあるケーキ屋さんだった。『パピヨン』と書かれた可愛らしい看板が店先に立て掛けてある。
「ここのケーキ、すごく美味しいんだって。気になってたんだけど、オジサン一人じゃどうも入りづらくてね」
 ああ、それで私を……。でも、何で突然ケーキなんだろう?
「律子ちゃん、何だか少し疲れているみたいだから。甘いもの食べると、きっと元気出るよ。気に入ったら、旦那さんにもお土産に買って帰ったらどうかな? 仲直りのしるしに」
 夏芽が楽譜に触ったことを咎めてしまい気まずくなった、と先程話したから、気にしてくれたようだった。
「そう……ですね。そうします、ありがとうございます」
 夏芽は、甘いものがあまり好きではない。お菓子ならポテトチップスとか、塩気のあるものを好む。喜んでもらえる自信はないが、仲直りの為なら食べてくれるかもしれない。
 私たちの前には、注文したフルーツタルトとチョコレートケーキが運ばれてきた。

「アキの古い楽譜ね、実は元々バラけてるんだ。僕も少し前に触ったらページがすっぽ抜けてさ、焦ったよ。アキのやつ、『もうずいぶん前からそんな状態だから』って言いながら、焦る僕を見て笑ったんだ。酷いだろ?」
 星さんはその時のことを思い出しているのか、くつくつと笑い出す。
「そうだったんですね……」
 夏芽に、悪いことをしてしまった。あそこまで言うことなかった。やっぱり、ちゃんと謝ろう。
「そうそう。だから安心して。それに、アキは優しいから、怒ったりなんかしないよ」
「……夫に、酷い態度を取ってしまったんです」
 父親に話しているかのような気分で、私は目の前の星さんに吐露する。
「夫は音楽にもピアノにも全く興味がなくて……無関心で。私、だんだんそれを不満に思い始めているんです。結婚する時は、お互いの趣味を尊重し合える良い関係だって思っていたのに。それなのに今は、彼と音楽の話ができないことがすごく苦しくて。イライラしてしまって。私、どこか彼のこと見下してしまっているのかもしれません」
 
 母は、私に旋律の「律」を贈った。
 父は、音楽は人生を豊かにするよ、と口癖のように言った。
 秋くんは、ピアノってすごいんだよ、と言った。
 夏芽は——夏芽との間には、何も無い。
 
 一番近くにいる人なのに、一番遠くに感じている。
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