はじまりのワルツ
「何もかもわかり合う、なんて無理なんじゃないかな。血の繋がった家族でだって難しいのに、まして夫婦なんて元は他人なんだから」
 星さんは穏やかな口調で、どこか割り切ったことを言った。
「律子ちゃんにとって、ピアノは妥協できないポイントだったんだね」
 図星だった。
「自分でもわかっていませんでした。食の好みとか、金銭感覚とか。そういう、生活に直結することの方が、ピアノなんかより大事なことだって思っていたから……」
 こんなに苦しくなるなんて、想定外だった。
 
「難しいよね、夫婦って。まあ、僕もアキも、一度失敗してるから、あんまり偉そうなことは言えないけど」
 
 何気なく星さんが放った言葉に、私は固まった。
「……秋月さん、ご結婚されてたんですね」
 努めて冷静を装う。
「うん、もうずいぶん昔だけどね。あいつも、色々苦労しててね。アキの家はいわゆる音楽一家で、両親は二人ともプロの演奏家だったんだ。当然、アキもプロになることを期待されて、ピアノを始めた。だけど、あいつは向いてなかった」
「向いていなかった? でも、音大でピアノを弾くようなレベルだったんですよね?」
「うん。技術的には、きっとプロの演奏家になれただろうね。だけどあいつは、それを望まなかった。——優しすぎたんだ。プロになるには、やっぱり野心もある程度必要なんだろうね。でもアキにはそれが全く無かった。誰かと争うのが嫌いで、順位を付けられるのも嫌いで。あいつはね、それこそピアノの先生みたいなものを目指していたんだ。家庭にあるピアノで、好きなように好きな音楽を奏でる——ピアノは、そういう楽しい気持ちで弾いてこそ、最高の音色なんだ、ってね」
 
 秋月さんらしいな、と思った。確かにあの人は、上手に弾けるかどうかは二の次だと言っていた。それよりも、音楽を好きな気持ちとか、ピアノを大事に思う気持ちとか。そういうものの方にきっと価値があると思っているのだろう。
 
「星さんは、学生時代から秋月さんとお知り合いなんですか?」
 そう尋ねると、星さんは頷いた。
「うん。僕は当時、調律師としてアキが通っていた大学のピアノ科にお世話になっていてね、その頃知り合ったんだ。で、いつの間にかアキも調律の仕事に興味を持ち始めて、今に至るってわけ。まあ今思えば、ピアニストの道を捨てて調律師になるなんて、家族への当て付けもあったのかもしれないね」
 若かったからね、と付け足して、星さんは笑った。
「それで、前の奥さん……とは?」
 どうしても気になってしまう。どうして、秋月さんは別れてしまったのか。
「ああ、アキの元奥さんはバイオリンの演奏家でね。今でも楽団で演奏するような、腕の良いバイオリニストだよ。結婚した時は二人ともまだ学生で、アキが調律師を目指し始めたことで別れたんだ。彼女も、アキにはプロのピアニストになってほしかったみたいでね。今の律子ちゃんみたいに、アキもあの頃悩んでたよ。どうしてわかり合えないんだろう、ってね」
 
「そうだったんですね……」
 星さんが色々と話してくれるのを良い事に、秋月さんの過去を聞いてしまったことに少し後ろめたさを感じた。
 
「アキと律子ちゃんて、どこか似ているよね」
「え? 私が、ですか?」
 どこにもそんな要素が見当たらないのだけど。
「うん。二人とも耳が良くて、ピアノを深く愛していて。そして、どこか寂しそうだ」
 
 寂しい?
 私は、寂しかったのだろうか?
 夏芽と音楽の話ができないことが? それとも、女として見られていないことが?
 
「アキも、何となくそれを感じとったんじゃないかな。初めて律子ちゃんのピアノを調律しに行った日、君のことばかり話していたから。すごく素敵な演奏をするお客さんに会った、って」
 
 あんな拙い演奏のどこが良いのか、自分ではさっぱりわからなかった。でも確かにあの時、弾いていて楽しかった。目の前の秋月さんの為だけに弾いたピアノは、楽しかったのだ。

「アキ、良いやつだよ。良い意味で力が抜けていて。競争は苦手だけど、決して弱いわけじゃない。真っ直ぐ芯の通った、優しい人間なんだ。こんなこと律子ちゃんに言うのも何だかおかしいかもしれないけど、アキのこと、これからも宜しく頼むよ」
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