はじまりのワルツ
 その後、星さんと『パピヨン』でケーキを食べながらいろんな話をした。
 秋月さんとの話や調律の仕事の話、おすすめの楽譜や、お気に入りの曲。気が付いたら、あっという間に一時間以上過ぎていた。
 僕が一方的に誘ったんだから、と言って星さんはケーキ代をご馳走してくれた。
 私の食べたフルーツタルトがとても美味しかったので、夏芽へのお土産に(ひと)ピース購入することにした。

 帰り際、星さんは何かのチケットを私に手渡した。
「これ、今週末に隣町であるピアノコンサートなんだけど、良かったら行ってみてよ。実はアキ、このコンサートの調律師として帯同しててさ。それで今週からしばらく不在なんだ。あいつの調律したピアノの音、聴いてもらえたら嬉しいな。二枚あるから、旦那さん誘って、是非」

 チケットには、会場である隣町の市民ホールの名前と、演奏するピアニストの写真と名前があった。

「――えっ」
 私は、そのピアニストの名前を見て驚いた。
 そこには、『南秋之』とあったからだ。
「このピアニスト……」
「あ、もしかして知ってる? 南秋之。もう四十半ばとかになるのかな? 遅咲きだけど、なかなか良い演奏するよね。もっと売れても良いと思うんだけど、知る人ぞ知る的なピアニストだね」

「……四十一です」
「そうなんだ? さすが、詳しいね律子ちゃん」

 詳しくて当然だ。「彼」は私より一回り年上で、子供の頃ずっと憧れていた人――秋くんなのだから。


******


 ダイニングテーブルの上に置いたチケットを眺める。写真の顔は、私の記憶の中のその人からかなり歳を取っている。記憶の中の秋くんは今でも、端正な顔立ちの青年なのだ。それでも、涼し気な目元や真っ直ぐな黒髪は、あの頃と何も変わっていない。私の好きだった、秋くんそのままだった。
 あれから、母と秋くんがどうなったのか私は知らない。知りたくもなかったし、知ろうともしなかった。秋くんほどの腕があれば、もっと若い頃から華々しい活躍ができたはずなのに。遅咲き、ということはプロになったのはあれからずっと後のことなのだろう。母と不倫などしたせいで、秋くんの人生はきっと本来あるべきものから大きく方向転換せざるを得なくなったはずだ。
 正直、会いたいとはもう思わない。だけど、ピアノは聴いてみたい。秋くんの演奏だからじゃない。秋月さんが、調律した音だからだ。


 午後七時。玄関扉をガチャガチャと開ける音がして、夏芽が仕事から帰ってきた。
「おかえりなさい」
 そう声を掛けても、夏芽からは何も返ってこなかった。まだ怒っているのだろう。
「ご飯できてるよ。それと今日はデザートにケーキもあるの。すごく美味しかったから、夏芽にも食べてもら――」

「お前、浮気してたんだな」

 私の言葉を最後まで聞かないうちに、夏芽は被せるように言った。

「……一体、何の話?」
「はっ! とぼけんのかよ。もういいって。俺、ようやくわかったわ。最近のお前の態度がおかしかった理由」
「だから、何の話よ?」
 駄目だ、イライラする。夏芽は一体、何が言いたいんだろう?
「――見たんだよ、今日。後輩が、最近評判のケーキ屋があるって言うから、この間のことお前に謝ろうと思って、買いに行ったら――」
 今日? まさか、『パピヨン』で星さんとお茶していたところを見たのか。とんだ誤解だ。冗談じゃない。
「あ、あの人はお世話になってる調律のお店の人よ! 偶然会って、少し話をしていただけじゃない」
「やっぱりピアノ関係のやつか! そうだと思ったよ。お前、ピアノの調律してもらった日から、何か様子がおかしかったもんな。あの汚い楽譜も、あのオッサンに借りたものなんだろ?」
「はあ⁉ 違うわよ! 勝手な想像しないでよ!」
「違わねえだろ! 真昼間から、何堂々とよその男とケーキなんか食って楽しそうに話してんだよ⁉ 俺の前ではいっつもつまらなそうな顔しかしないくせによ!」
「それは……それは、あなただって同じじゃない! 私のこと、全然興味なんか無いくせに! 私が話しかけても、いつだってスマホばっかりいじって。私の話なんかまともに聞いてくれたことないじゃない!」
 夏芽は、面倒くさいと言わんばかりに、はあっと大きなため息を吐いた。私の嫌いな仕草だ。
 
「やっぱ、母と娘って似るんだな。俺、今日確信したわ」
「何が?」
 私は、夏芽を睨みつける。どうして今、母の話になるのだ。
「お前の母親、昔教え子だった若い男と不倫して出て行ったんだろ?」
「……どうして」
 夏芽に母の話をそこまで詳しくしたことはない。離婚している、としか言っていないはずだ。
「はっ。俺が知らないとでも思った? 調べるに決まってんじゃん、結婚相手の家族の素性くらい」
 信じられない。結婚する時には既に、知っていたというのか。私が一番知られたくない母のことを。夏芽に。夏芽なんかに。
「マジでぶっ飛んでるよな、お前の母親。立場も家族も捨てて、若い男に走るなんてさ。ま、お前は若い男じゃなくてオッサンが良いみたいだけどな」
 そう言って、夏芽は馬鹿みたいに笑い出した。
 
「……やめてよ」
「あーあ、マジ萎えるわ。なあ、何が良いワケ? あんなオッサンの。ピアノが弾けるからか? ピアノのせいで母親出て行ってんのに、何でそんなピアノが好きなんだよ? ていうか、お前のピアノすっげーヘタクソ……」

 バシャッ!
 私は、ダイニングテーブルに置いてあった水の入ったグラスを、夏芽に向かって思いきりぶちまけた。許せなかった。母のことを誰かにとやかく言われる筋合いはない。ましてや、他人である夏芽なんかに、母の何がわかるのだ。

「律子、お前……。ふざけんなよ。冷てえな、クソッ」

 濡れた顔を濡れた自分の手で拭いながら、夏芽は私を睨んだ。
 私は、テーブルに置いたままだったコンサートのチケットを掴むと、お財布とスマホ、それに家の鍵が入ったままになっているトートバッグを持って部屋を出た。そのまま玄関を飛び出して、走る。もうこれ以上、ここにいたくない。夏芽のそばにいたくない。

 ――会いたい。秋月さんに会いたい。今すぐに会いたい。
 
 夏芽は、案の定後を追ってくることはなかった。
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