はじまりのワルツ
 気が付いたら星降堂の前にいた。
 幸い、まだ電車もバスも動いている時間だった。勢いで家を出てきてしまったものの、これからどうすれば良いのか、何も考えていない。とにかく、夏芽から離れたかった。
 星降堂の扉には既にCLOSEDの看板が下がっている。それに、秋月さんは今、秋くんのコンサートに同行しているからここにはいない。
 謝って、仲直りをしようと思ったのに。結局、買ってきたケーキは冷蔵庫の中だ。夏芽が食べることも無いのだろう。もう全てどうでもいいような気がしてきた。
 
「――奥さん?」

 背後から、声がした。驚いて振り返ると、そこには秋月さんの姿があった。
 ひょろりと細い身体に大きな荷物を背負って。癖のある髪は少し乱れている。

「あ……。秋月さん? どうして……」
 ここにいるはずのない人が突然現れ、私はただ茫然と立ち尽くすだけだった。言葉が出てこない。それなのに、秋月さんの顔を見たらどうしてか涙が溢れてきた。
「えっ、ど、どうされました? 奥さん? 大丈夫……ですか?」
「だい、じょうぶ、です……。ご、ごめんなさい」
 恥ずかしさで逃げ出したい気持ちに駆られるものの、足は動かない。
「えっと、とりあえず、中に入りましょうか。外は冷えますから。ねっ」
 そう言って、秋月さんは私の肩を優しく抱いて星降堂の中へと案内してくれた。

 
 星さんは出かけているらしく、星降堂には誰もいなかった。秋月さんは店内の奥にある応接スペースへと私を連れて行き、スツールに座るよう促した。しばらくすると、温かい紅茶を淹れて、私の目の前に差し出してくれた。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます……。すみません、こんな時間に突然」
 秋月さんは自分用に淹れたマグカップを啜る。珍しく、冷たいお茶ではないようで、カップからは湯気が上がっている。
「いえ、大丈夫ですよ。少し驚きましたけど」
「ですよね……。本当に申し訳ありません。でも秋月さん、今週はずっといないって星さんが」
 ああ、と言って秋月さんは微笑んだ。
「今、コンサートの調律を任されていて、出ずっぱりなんです。次のコンサートは隣町なんで、近いし帰ってきちゃいました。道具のメンテナンスもしたかったので、ついでに」
「そう、だったんですね」
 秋くんと、話したりなんかしたのだろうか? ふとそんなことを思った。

「チケット、頂いたんです。星さんから」
「え、そうなんですね。今週末、というか明日の?」
「はい。秋月さんの調律したピアノ、是非聴きにきてほしいって仰って」
 そう言うと、秋月さんは照れ臭そうに笑って頭を掻いた。
「聴きに来ていただけるんですか?」
「勿論です。すごく楽しみにしています。本当は、主人を誘おうと思っていたんですけど……」
 先程繰り広げた、夏芽との喧嘩を思い出す。胸が苦しくなった。
「駄目でした。喧嘩しちゃって。私たち、ほんと全然合わないんですよね。わかり合えないというか。何だかもう、疲れてしまいました」
 これ以上夏芽といても、きっとわかり合える日など来ないのかもしれない。でもそれは全て、上原夏芽という人間を夫に選んだ私の責任なのだ。誰のせいでもない。

「奥さ――」
「奥さんって、呼ばないで」

 私は秋月さんを制した。私は確かに夏芽の「奥さん」ではあるけれど、秋月さんにはそう呼ばれたくない。初めからずっとそう思っていた。

「お願いします。奥さんって、もう呼ばないでください。あなたにそう呼ばれるの、何だかすごく辛いんです」

 秋月さんは困った顔をしている。当たり前だ。勢いに任せて、私は何を言っているのだろう?
 すると秋月さんはマグカップをテーブルに置き、泣き腫らした私の目をじっと見つめる。目じりに皺が寄る。優しい顔。

「律子さん」
 
 そう私の名前を呼ぶと、秋月さんはその細く長い指先で、私の額に張り付いた前髪に触れた。思わず、心臓が跳ね上がる。秋月さんの顔が近づく。形の良い鼻が、唇が、近づいてくる。その瞳は、少し揺らいで見える。このまま、この人に何もかも奪われてしまいたい――。


「――今夜は、泊まっていってください。もう遅いですし、喧嘩したご主人のいるお家にはまだ帰りたくないでしょうから。二階の、僕の部屋使ってください。良かったら。あ、僕はどこででも寝られますから、気にしないで」
 
 そのまま私を二階の自室まで案内すると、秋月さんは足早に階下へと戻って行った。
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