はじまりのワルツ
 秋月さんの匂いのするベッドで翌朝目を覚ますと、枕元のサイドテーブルにはきちんと畳まれたタオルに鍵、それからメモ書きが置かれてあった。

『律子さん
 仕事がありますので先に出ます。出かける時は施錠だけお願いします。タオルは新品なので、良かったら使ってください。コンサート、楽しんでくださいね。 秋月』

 律子さん、と書かれた文字に指で触れ、何だかくすぐったい気持ちになる。
 夕べ、上原さん、ではなく下の名前で呼んでくれたことが嬉しかった。秋月さんに触れられた前髪をそっと撫でると、胸が高鳴る音が聴こえた。
 コンサートは今夜、十八時開演だ。土曜日なので夏芽は家にいるかもしれないが、とにかく一度家に帰って、出かける支度をしなければ。私はもう、夏芽の元には戻らない。


******


 家に戻ると、そこに夏芽の姿は無かった。ダイニングテーブルは綺麗に片付けられており、ごみ箱の中には昨日私が『パピヨン』で夏芽の為に買ったケーキの空箱が捨ててあった。あんなことがあった後で、一応食べてはくれたのか。その姿を想像すると、何だか少し可笑しく思えた。
 
 シャワーを浴び、服を着替える。メイクをして、髪の毛も整えた。鏡に映る二十九歳の上原律子とは、これでもうお別れだ。

 夏芽の言った通り、私は浮気をしている。
 私は秋月さんに恋をしている。初めて出会ったあの日から。
 抱かれたわけでもないし、キスをしたわけでも、手を繋いだわけでもない。
 だけど、心はとうに奪われている。
 幼い頃秋くんに抱いた憧れのような淡い恋心ではなく、もっと深くて、もっと情熱的で、もっと真剣なものだ。
 私は、秋月さんが欲しい。
 彼の笑顔が、声が、髪が、指が。
 彼を構成する全てが、愛おしい。
 私の心はもう、夏芽の元には戻らない。そう気付いた時から、私はきっと浮気をしていたのだ。
 あれほど、母のしたことを軽蔑していたのに。家族を捨て、立場も捨て、秋くんだけを選んだ母。私は母のようにはならないと思っていたのに。気が付けば、私は母と同じ道を選ぼうとしている。夫を捨てて、妻という立場を捨てて、上原律子を捨てて。
 
「お母さん。やっぱり、あなたは私に呪いをかけたんだね」
 
 鏡に映った自分に向かって、そう呟いてみる。年々、母に顔立ちが似てきているのはとっくに自覚していた。

 私は今、道を踏み外そうとしている。
 だけど、私を止められるものはもう何も無い。
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