はじまりのワルツ
 隣町にあるコンサートホールは、大小二つのホールを兼ね備えた、この辺りでは一番大きな規模のホールだ。地元の交響楽団の本拠地としても知られている。
 
 南秋之のピアノコンサートは、二百人程の収容力のある小ホールにて開催される。会場へ着くと、既に開場を待つ人の列が出来ていた。知る人ぞ知る、と星さんは言っていたが、これほど多くの人が秋くんのピアノを聴きに集まるのか、と思うと、感慨深いものがあった。あの小さなレッスン室で優雅に音楽を奏でていた青年は、恐らく色々なものを乗り越えて、今の立場を築き上げたのだろう。
 行列の中に、ひょっとすると母の姿があるかもしれない。そう思って見渡してみたものの、見つからなかった。母とはもう二十年弱会っていない。お互いを見つけても、きっと認識できないだろう。

 小ホールのステージには、黒いグランドピアノが一台置かれている。天井からの柔らかい照明に照らされたピアノは、これからその鍵盤に触れ美しい音を奏でるピアニストの登場を、今か今かと待っている。
 私の席は、比較的前列の左側、丁度ピアノを弾く手元が見える場所にあった。
 会場に、秋月さんの姿は無い。調律を終えた彼は、きっと裏で控えているのだろう。自分が整えた音が、どんな美しい調べとなるのかをその耳で聴く為に。
 開演時間が近づくと、次第に会場は人で溢れだした。空席となってしまった私の隣に、何人かが視線を寄越してくるのがわかった。夏芽の座るはずだった席には、誰も座ることはない。
 
 いよいよ開演時間となり、会場にアナウンスが流れる。次第に客席の照明が落とされていく。そこここから聞こえていた騒めきも次第に止み、会場は静寂に包まれた。
 背筋が伸びるような緊張感の中、舞台袖から男性が一人、現れた。
 髪に混じった白いものがその年齢を感じさせるものの、彼は非常に姿勢が良く、整った顔立ちも相まって、その姿からは気品が溢れている。
 南秋之。私がずっと憧れていた、大好きだった「秋くん」だった。
 客席に向かって恭しく一礼をすると、彼は椅子を引いて腰を下ろした。一瞬、どこか遠くへ視線を送るようなわずかな間があったが、すぐに鍵盤に指が置かれた。
 
 初めの一音を鳴らす。そのまま階段を上るように、滑らかに進む不協和音のような前奏。そして、ぱっと華のある主題が始まった。秋くんの得意な、ショパンだ。
 記憶の中の彼の演奏より、今のほうがずっと音が深い。鍵盤の上を跳ねるような仕草はそのままに、完全に演奏の精度は上がっている。十分に上手だと思っていた秋くんの演奏にこんなに伸びしろがあったことに、私は今更ながら驚かされている。

 秋くんのショパンはそこから二曲続き、ベートーベン、モーツアルト、と続いた。モーツアルトの「きらきら星変奏曲」では、昔のように音の粒が宙を舞っているのが見えた。そして最後に秋くんが弾いたのは、チャイコフスキーの「花のワルツ」だった。私にピアノの楽しさを教えてくれた、思い出の曲だ。無意識に、指が膝の上で動く。やっぱり、南秋之のピアノは特別だ。他の誰の演奏より、心に響く。

 だけど私は気づいている。
 家にあったあのグランドピアノで奏でられた音と、今、この会場で響いている音とは、全く次元が違うということを。完璧に調律された、寸分の狂いも無い音。確かな響き。もちろん、ピアニストの腕が良いのはあるけれど、この音を作っているのは彼――秋月さんなのだ。秋月さんの調律が、秋くんの演奏を引き立てている。
 愛しい人の手によって作り出された音。私に、あの人の調律したピアノを弾く資格は無いのかもしれない。だけど、弾きたい。もっと上手に、もっと美しく、朗らかに。そしてあなたを喜ばせたい。私がピアノを弾く隣には、あなたに、秋月さんに、いてほしい。

 コンサートが終わる頃、私の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
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