はじまりのワルツ
 コンサートが終わり、会場を出ようとしたところで係の女性に呼び止められた。
 
「お客様、上原律子様でいらっしゃいますか?」
「は、はい。そうですが、何か……?」
「あなたをお連れするようにと言われておりまして。少しよろしいですか?」
 誰から、とは言われないまま、私は彼女について歩く。ホールを出て通路を進み、『関係者以外立入禁止』と書かれた扉の中へと案内される。

 控室、と書かれた扉の前まで来ると、彼女はコンコンとその扉をノックした。
「アキさん、お連れしました」
 その声を合図に扉が開き、中から秋月さんが顔を出した。
「あっ……。秋月さん……」
 まさか会えると思っていなかったので、隠しきれない嬉しさが声に出てしまいそうで私は焦る。
「律子さん、良かった。来てくれたんですね」
「帰ろうとしたところで呼び止められて……。驚きました」
「ごめんなさい。とりあえず、中へどうぞ」
 係の女性はその場を後にし、私は促されるまま秋月さんのいる控室へと入った。テレビでよく見る楽屋のようなその場所には、壁にいくつかモニターがはめ込まれている。

「ここね、会場を映しているカメラの映像を見ることができるんですよ。あなたのこと、ここから見てました、ずっと」
「えっ」
 音楽に乗ってウキウキしている姿や、泣いているところも見られていたというのか……。穴があったら入りたい気分になる。
「すみません、覗きみたいなことして。でも嬉しかったです、あなたの姿を見つけて。……ご主人は、やっぱりいらっしゃらなかったんですね」
「ええ、まあ……」
 家を出た時から、もう夏芽は私にとって過去の人になりつつある。

「南秋之、お知り合いだったんですね」

 突然、秋月さんから秋くんの名前が出て、私はわかりやすく動揺した。
「……どうして?」
「彼とは何度かコンサートに帯同させてもらっている仲で、同い年ということもあって仲良くしてもらっているのですが、あなたの話をしたら『知っている子だ』と言うものだから驚いて……。世間は本当に狭いですね」
 なんと。秋月さんと秋くんは、既に知り合いだったのか。
「その、苦労されたのですね、律子さん。お母様と南に、そういうことがあって……」

 あれ程知られたくなかった過去なのに、秋月さんが知っていてくれたことに何故だか安心感すら覚えた。

「律子さんのお母様、今でも南と一緒にいるそうですよ。僕はまだお会いしたことはありませんが、南からいつも聞いています。『南秋之のことを誰よりも理解してくれる、たいせつな人なんだ』、って」

 それを聞いて、私はわかった気がした。
 何故、母が家族よりも秋くんを選んだのか。何故、全てを捨ててまでそうしたのか。それは秋くんが、母のことを唯一理解してくれた人だったからだ。夫でも娘でも、ピアノをもってしても埋まらなかった心の隙間に、秋くんがぴったりとはまったからだ。お互いにお互いが、無くてはならない存在だったのだ。

 お母さん。私、ようやくわかったよ――。ごめんね。

「秋月さん」
「はい、何でしょう?」
「私、あなたが好きです。もうどうしようもないくらいに」

 真っ直ぐに秋月さんにそう告げると、彼の顔に驚きの色が浮かんだ。

「律子さん……。でも、あなたにはご主人が」
「それでも好きなんです。私の心、こんなに奪っておいて、そんなこと言わないで」
「僕は、あなたよりずっと歳上で……」
「一回り違うくらい、どうってことありません」
「バツイチだし……」
「それが何だっていうの」
「ピアノのことばっかりで、他のことは全然ですし。料理とか、掃除とか」
「私がやります、そんなことくらい」
「あなたを、幸せにはしてあげられないかもしれない」
「秋月さんがそばにいるだけで、私は十分幸せです」
「……後悔しませんか? 僕を選んで」
「しません、絶対に。あなたを忘れて生きていく方が私、きっと、ずっと後悔します」

 また涙が溢れてきた。私はいつからこんなに泣き虫になったのだろう? でも、考えられないのだ。秋月さんのいない人生を生きていくなんて。

「あなたって人は……! どうして、そう僕を困らせるんですか? あなたは誰かの『奥さん』だからと、ずっと一線を超えないようにしていたのに……」
 
 そう言うと、秋月さんは私を抱きしめた。彼の細い腕からは想像できない程その力が強くて、私は一瞬戸惑ってしまう。でも、胸の高鳴りが止まらない。好き。この人が好き。大好き。
 
 (みち)を踏み外したって、構わない。


「律子さん。もう、どうなっても知りませんよ」

 秋月さんの唇が、私のそれに重なった。
 脳がクラクラする。
 もう、戻れない。




 戻らない。
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