はじまりのワルツ
 私の実家には、立派なグランドピアノがあった。母が自宅でピアノ教室を営んでいた為だ。母は音大の出身で、プロにはなれなかったものの確かなピアノの腕を持っていた。住宅街の中でひっそりと始めたピアノ教室はやがて評判となり、たくさんの生徒が通うようになった。
 その中に、彼——(みなみ)秋之(あきゆき)はいた。
 
 南秋之は私より一回り歳上で、私は彼を「(あき)くん」と呼んで慕っていた。一人っ子だった私にとって、秋くんは歳の離れたお兄ちゃんのような存在だった。秋くんは他の生徒とは違って、レッスンの無い日でも家にやってきては熱心にピアノを弾いていた。母と三人で、ご飯を一緒に食べたりもした。今思えば、色々と合点がいくことが多いが、その時の私は勿論、何も知らなかった。
 
 秋くんは当時、かつての母と同じ音大に通っており、ピアニストを目指していた。子供心に不思議だったのは、秋くんのピアノは誰かに習う必要など感じられない程、上手だったことだ。他の生徒が鳴らす音は拙いものばかりだったのに、秋くんだけはきちんと完成された音楽を奏でていた。
 
 偉そうな批評をしているが、私にはピアノの才能が無い。それゆえ、母親がピアノ教師ならその娘も当然上手だろう、という周囲の勝手な思い込みにいつも苦しめられていた。どんなに頑張って練習をしても、母には決して敵うことはない。幼くしてそのことに気が付いた私は、次第にピアノから距離を置くようになった。
 とはいえ、ピアノが嫌いになった訳ではない。自分が弾けなくとも、他の上手な誰かが弾くのを聴いているのは好きだった。そして、そんな私の耳をとらえて離さなかったのが、秋くんのピアノだったのである。
 
 秋くんのピアノは——言葉で表現するのは難しいのだが——独特だった。深く、じんわりとした味わいがあって、心に真っ直ぐに届いた。秋くんの奏でる音を聴くと、不思議と胸が高鳴った。彼が鍵盤の上に指を滑らす度、音の粒が宙を舞っているのが見えるような気さえした。同じ楽器から奏でられているとは俄かに信じ難いくらい、秋くんのピアノは唯一無二だった。
 

「りっちゃん。ピアノってすごいんだよ」

 幼い私に、秋くんは優しく微笑んだ。
 
「ピアノはね、とってもたくさんの音が出せるんだ。音域、ってわかるかな。すごく低い音からすごく高い音まで。バイオリンやトランペットがなくても、ピアノが何台かあれば、オーケストラができちゃうんだ」
「えっ、すごいすごい! そうなの⁉︎」
「そう。だから、りっちゃんもピアノを好きでいてくれたら、僕は嬉しいな」
 
 上手に弾けないから、と練習をさぼりがちになっていた私に、秋くんはそう言ってくれた。今になって思えば、母に言わされただけなのかもしれないけれど。
 
 
 *****
 
 
 ピアノの蓋をそっと撫でる。
 上手に弾けなくても、苦しい思い出があっても。私は、ピアノを決して嫌いになれない。そこにはいつだって、忘れられない秋くんとの思い出があるから。
  
「まあ、でも良かったじゃん。ピアノ、ずっと欲しかったんだろ?」
「うん」
 夏芽に話しかけられ、ハッとした私は蓋を撫でていた手を引いた。
「俺もゲームとかしてるしさ、律子もどんどん好きなことしたらいいよ」
「うん。そうするよ」
 そうするよ、あなたに言われなくたって。
 
 
 結婚を機に、私はそれまで勤めていた会社を辞めた。大した仕事はしていなかったけれど、それなりに頑張ってはいた。家庭に入ってほしい、と言ったのは夏芽だった。彼には彼なりの理想があって、「仕事から帰ったら家で奥さんと子供が待っていてくれる」生活に憧れていたらしい。ただ、夏芽のそんな夢を私は叶えてあげられなかった。——子供が、できなかったのだ。今になって思えば、原因は私ではなく夏芽にあったのかもしれないが、彼はきちんと調べることさえ拒んで、一方的に私のせいにした。
 思えば、その頃から夏芽との間には深い溝が出来てしまった気がする。それ以来、お互いに子供の話は一切しなくなった。そして、夏芽が私に触れることも無くなった。
 
 だからといって夏芽との結婚生活に不満があるわけではない。彼のお陰で何不自由なく暮らしていられるし、こうして家にピアノを迎えることもできた。だけど。
 だけど、夏芽といても、私はちっとも胸の高鳴りを感じられないのだ。
 恋愛と結婚は違うとか、結婚すればときめきなんてなくなるとか。人はそう言う。だけど、その理屈は私には当てはまらない。
 夏芽にときめいたことなど、出会ってからこれまで一度も無いのだから。
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