はじまりのワルツ
ピアノが届いてから数日後。
購入した楽器店に連絡をし、調律師を手配してもらった。幸運にも、今日の今日でキャンセルが出たため、家に来てもらえることになった。やはり音が狂っているのが気になるので何とかしたい。
午前十一時。約束の時間ぴったりに、玄関のインターフォンが鳴る。
「星降堂の者です。ピアノの調律に参りました」
くぐもった声。カメラを覗くと、マスク姿の男性が一人。怪しげに見えるが、業者を名乗ったのだから大丈夫だろう。
「はい、今開けます」
玄関扉の向こうにいた男性はひょろりと背が高く、マスクで表情はわからないものの、その目は優しげで、ひとまずほっとした。ピアノの置かれたリビングへと彼を案内する。彼は「失礼します」と言って、部屋の奥へと入っていった。
「中古で買ったんですけど、音が少し狂っているみたいで」
「ああ、なるほど。では、見させていただきますね」
「お願いします」
彼は、肩に提げていた黒いバッグをそっと床に置いた。拡げられたバッグには、電気工事でも始まるのかといわんばかりに、工具がたくさん並んでいる。
鍵盤蓋を開け、彼は一音ずつ鳴らして状態を確認し始める。小さく頷いたり、首を傾げたりしながら、それを繰り返す。一通りその作業を終えると、外装と鍵盤を外す。あらわになったピアノの内部は、複雑な絡繰のようになっている。
黙々と作業を続ける彼の邪魔にならないよう、私はキッチンに置いたスツールに腰掛けて文庫本を開いた。これなら彼も気にならないだろう。
姿は見えないものの、カウンター越しに彼が作業をする音が聴こえてくる。
ガタン。コトコト。カチャカチャ。ザッ。ザザザッ。そして再び、一音ずつ音が鳴る。同じ音を何度も鳴らして、その音を確かめる。コンコン。コンコン。何かで叩く。納得のいく音が出るまでそれを繰り返す。
私は文庫本を膝に置いて、すっかり彼の出す音に聴き入ってしまう。調律をしているだけなのに、随分と心地が良い。こんな音を聴くのも久しぶりだからかもしれない。
「あの、すみません。奥さん……?」
ハッと我に返り顔を上げると、キッチンカウンターから彼が顔を覗かせている。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「えっ、あっ。す、すみません! 私、眠ってしまって……」
慌ててスツールから立ち上がると、バランスを崩して後ろによろけてしまう。その拍子に背後の食品棚にぶつかり、やかましい音を立てて玉ねぎが籠ごと床に落ちて転がる。
「ああっ……!」
……最悪だ。
「ふっ」
彼が笑いを堪えきれずに噴き出した。私と目が合うと、気まずそうに口元を手で抑える。
「……すみません、僕が驚かせたから」
そう言いながら彼はキッチンの中まで回り込むと、床に転がった玉ねぎを拾ってくれた。慌てて、私も足元の玉ねぎを拾おうと屈み込む。
「いえ、違うんです。作業されている音があんまり良い音だったので、心地良くて、ついウトウトしてしまって……」
私の言葉に、彼の目が微笑む。間近で見ると、彼の目元には少し皺が刻まれている。
「そんなこと言われたの、初めてです。なんか……ありがとう」
ありがとう。
その口調があんまり優しくて、胸にきた。
真っ直ぐに、光の矢のように、私の心に入ってきた。油断をしたら泣いてしまいそうで、私は咄嗟に立ち上がる。彼に、顔を見られないように。
「……あの、お茶、淹れますね。すみません、お気遣いできなくて」
「いえ、どうぞお構いなく。あ、できたら冷たい方で」
お構いなくと言いながら、ちゃっかりリクエストを入れてきた彼に、ちょっと笑いそうになる。
「承知しました。冷たいお茶、ご用意しますね」
購入した楽器店に連絡をし、調律師を手配してもらった。幸運にも、今日の今日でキャンセルが出たため、家に来てもらえることになった。やはり音が狂っているのが気になるので何とかしたい。
午前十一時。約束の時間ぴったりに、玄関のインターフォンが鳴る。
「星降堂の者です。ピアノの調律に参りました」
くぐもった声。カメラを覗くと、マスク姿の男性が一人。怪しげに見えるが、業者を名乗ったのだから大丈夫だろう。
「はい、今開けます」
玄関扉の向こうにいた男性はひょろりと背が高く、マスクで表情はわからないものの、その目は優しげで、ひとまずほっとした。ピアノの置かれたリビングへと彼を案内する。彼は「失礼します」と言って、部屋の奥へと入っていった。
「中古で買ったんですけど、音が少し狂っているみたいで」
「ああ、なるほど。では、見させていただきますね」
「お願いします」
彼は、肩に提げていた黒いバッグをそっと床に置いた。拡げられたバッグには、電気工事でも始まるのかといわんばかりに、工具がたくさん並んでいる。
鍵盤蓋を開け、彼は一音ずつ鳴らして状態を確認し始める。小さく頷いたり、首を傾げたりしながら、それを繰り返す。一通りその作業を終えると、外装と鍵盤を外す。あらわになったピアノの内部は、複雑な絡繰のようになっている。
黙々と作業を続ける彼の邪魔にならないよう、私はキッチンに置いたスツールに腰掛けて文庫本を開いた。これなら彼も気にならないだろう。
姿は見えないものの、カウンター越しに彼が作業をする音が聴こえてくる。
ガタン。コトコト。カチャカチャ。ザッ。ザザザッ。そして再び、一音ずつ音が鳴る。同じ音を何度も鳴らして、その音を確かめる。コンコン。コンコン。何かで叩く。納得のいく音が出るまでそれを繰り返す。
私は文庫本を膝に置いて、すっかり彼の出す音に聴き入ってしまう。調律をしているだけなのに、随分と心地が良い。こんな音を聴くのも久しぶりだからかもしれない。
「あの、すみません。奥さん……?」
ハッと我に返り顔を上げると、キッチンカウンターから彼が顔を覗かせている。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「えっ、あっ。す、すみません! 私、眠ってしまって……」
慌ててスツールから立ち上がると、バランスを崩して後ろによろけてしまう。その拍子に背後の食品棚にぶつかり、やかましい音を立てて玉ねぎが籠ごと床に落ちて転がる。
「ああっ……!」
……最悪だ。
「ふっ」
彼が笑いを堪えきれずに噴き出した。私と目が合うと、気まずそうに口元を手で抑える。
「……すみません、僕が驚かせたから」
そう言いながら彼はキッチンの中まで回り込むと、床に転がった玉ねぎを拾ってくれた。慌てて、私も足元の玉ねぎを拾おうと屈み込む。
「いえ、違うんです。作業されている音があんまり良い音だったので、心地良くて、ついウトウトしてしまって……」
私の言葉に、彼の目が微笑む。間近で見ると、彼の目元には少し皺が刻まれている。
「そんなこと言われたの、初めてです。なんか……ありがとう」
ありがとう。
その口調があんまり優しくて、胸にきた。
真っ直ぐに、光の矢のように、私の心に入ってきた。油断をしたら泣いてしまいそうで、私は咄嗟に立ち上がる。彼に、顔を見られないように。
「……あの、お茶、淹れますね。すみません、お気遣いできなくて」
「いえ、どうぞお構いなく。あ、できたら冷たい方で」
お構いなくと言いながら、ちゃっかりリクエストを入れてきた彼に、ちょっと笑いそうになる。
「承知しました。冷たいお茶、ご用意しますね」