はじまりのワルツ
「いただきます」
 
 彼がマスクを外すと、形の良い鼻が姿を現した。なるほど、肌の感じからして、恐らく年齢は四十代といったところか。二十代の夏芽とは違って、少し枯れて見える。
 グラスに口を付け、ゴクリ、と冷たい麦茶を飲み干すと、私の目の前で喉仏がゆっくりと上下する。何か見てはいけないものを見たような気分になる。
 よく見ると、彼の額にはうっすらと汗が滲んでいた。マスクを着けたまま、集中して細かい作業をしていたのだから、暑くもなるはずだ。
 
「ごちそうさまでした」
「いえ。すみません、こんなもので」
「とんでもない。美味しくいただきました」
 
 私と彼の間に空っぽになったグラスが置かれると、沈黙が訪れた。何故か妙にソワソワしてしまう。
 
「奥さん、すごく耳が良いでしょう?」
 沈黙を破ったのは彼だった。
「耳? そうですか? 別に、普通だと思いますけど……」
 すると彼は、調律を終えたばかりのピアノを指差した。
「ピアノ。音が狂ってる、と仰いましたよね。実際、狂ってました」
「ですよね」
「でも、ごく僅かに、です。恐らく他の方なら気にもならない程度かと。僕はこんな仕事なので気になりますけど……。ピアニストでもない限り、ほとんど違いにすら気付かないと思いますよ」
 
 そう言われて、私は夏芽の顔を思い出した。音の狂いを指摘した時、彼はさっぱりわからないといった顔をしていた。あれは単に、彼が音楽に疎いからではないのか?
 
「実家が……ピアノ教室でした。それでいつもピアノを聴いていて」
「ああ、なるほど。それなら納得です」
「……でも私は全然上手じゃなくて。才能が無かったんです」
 彼は優しい顔で微笑みながら、私が話すのをじっと聞いている。初対面の人に、何をこんなにペラペラと話しているんだろう?
 
「ピアノの先生の子供に生まれたのにピアノが上手じゃないなんて、おかしな話でしょう? 実際、そのことでたくさん驚かれたり、がっかりされたりもしましたし」
 
 どんなに頑張っても、決して母には敵わない。ピアノも、女としても。
 無意識に、膝の上できゅっと拳を握る。
 
「そんなこと、ないですよ。あなたには正しく音を聴く力がある。それに、僅かな音のズレにもこうして調律を依頼する程、ピアノを大切に思っている。上手に弾けるとか、そんなことは二の次です。ピアノが——音楽が好きなら、それだけであなたの人生は素敵なものになります、きっと」
 
 そう言って微笑む彼の顔が、ふいに思い出の中の秋くんに重なって見えた。
 りっちゃん、ピアノはすごいんだよ。そう言って笑った秋くんに。
 ありえない。この人が秋くんであるはずがない。だって、彼は——。
 
 秋くんは、あの日私の母と駆け落ちをしたのだから。
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