はじまりのワルツ
母がいなくなったのは、私が呪いの言葉を浴びせられたあの秋の日からふた月ほど経った、十二月の寒い日だった。
秋くんがレッスンを辞めてから、母は魂が抜けたように無気力になった。父のことも、私のことも見えていないようで、眠っているか、泣いているかしか、していなかった。変わってしまった母に見切りをつけ、ピアノ教室の生徒は一人また一人と、去っていった。そして、ピアノの音が聞こえなくなった家から、最後に母が去っていった。離婚届と結婚指輪、そして「さようなら」というたった一言の書き置きだけを残して。
人気のあったピアノ教室の先生が若い男と駆け落ちをした、という噂は、瞬く間に近所へ広まった。好奇の目に晒されながらも、父はそれまでと何ら変わりなく、ただ静かに暮らした。そんな父に守られながら、私も普段通りの生活を送ることができた。夏芽との結婚を決めた時、父は、「幸せになりなさい」とだけ言って私を送り出した。
父が一体、母と秋くんのことをいつから知っていて、どこまで何を知っているのか。私にはわからなかった。離婚届を役所に持っていった後も、グランドピアノは処分せず、今でも実家に置かれたままだ。もう誰にも触れられなくなった大きなピアノは、まるで母の帰りを待っているかのように、そこにあり続けている。
*****
「——さっきの話なんですが」
空になったグラスの縁を指でもてあそびながら、目の前の彼が再び口を開いた。
「さっきの?」
「はい。その、奥さんがあんまりピアノが上手ではない、という」
「ああ……ええ、まあ」
何故そこを蒸し返すのだろう、と少々不快になる。
「ピアノ。聴かせてもらえませんか? 奥さんの」
「は? え……私の?」
「はい、あなたの」
「いや、それはちょっと……。本当に、人様にお聴かせできるようなものじゃないんで……」
母や秋くんとは違って、私の音楽は何も生み出さない。素人に毛が生えた程度のレベルなのだから。
そう拒んでも、彼は何故か食い下がった。
「構いません、それで。あなたの、確かな耳を持ったあなたのピアノが、僕は聴きたいんです」
真剣な眼差しでそんなことを言われ、私は逃げ場を失う。そんなに真っ直ぐ見つめないでほしい。胸が、ざわついて仕方ない。
「わ、わかりました。でも本当に、お聴き苦しいですから」
あらかじめ、そう釘を打っておく。そうでもしないと、勝手に期待されて勝手に落胆されるのがオチだ。
「ありがとうございます」
白いピアノの前に座り、鍵盤蓋を両手で持ち上げると、彼によって綺麗に磨かれた鍵盤が顕になった。思わずため息が漏れる。
突然ピアノを弾いてくれと言われても、私にはさほど弾ける曲のレパートリーが無い。少し悩んだ末、私は子供の頃一番好きだったチャイコフスキーの「花のワルツ」に決めた。前奏は自信がなかったので、いきなりメロディ部分から始めた。一番好きなサビの部分に差し掛かると、思わず「楽しい」と思ってしまった。この華やかなメロディラインが大好きだ。練習が嫌でたまらなかった頃、秋くんが私にこの曲を薦めてくれた。「きっと楽しいよ」と言って。騙されたと思って必死で練習した。秋くんに、聴いてほしかったから。
だけど、私の「花のワルツ」が完成するより早く、秋くんは姿を消してしまった。もう、彼に聴いてもらうことも、褒めてもらうことも叶わない。
秋くんがレッスンを辞めてから、母は魂が抜けたように無気力になった。父のことも、私のことも見えていないようで、眠っているか、泣いているかしか、していなかった。変わってしまった母に見切りをつけ、ピアノ教室の生徒は一人また一人と、去っていった。そして、ピアノの音が聞こえなくなった家から、最後に母が去っていった。離婚届と結婚指輪、そして「さようなら」というたった一言の書き置きだけを残して。
人気のあったピアノ教室の先生が若い男と駆け落ちをした、という噂は、瞬く間に近所へ広まった。好奇の目に晒されながらも、父はそれまでと何ら変わりなく、ただ静かに暮らした。そんな父に守られながら、私も普段通りの生活を送ることができた。夏芽との結婚を決めた時、父は、「幸せになりなさい」とだけ言って私を送り出した。
父が一体、母と秋くんのことをいつから知っていて、どこまで何を知っているのか。私にはわからなかった。離婚届を役所に持っていった後も、グランドピアノは処分せず、今でも実家に置かれたままだ。もう誰にも触れられなくなった大きなピアノは、まるで母の帰りを待っているかのように、そこにあり続けている。
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「——さっきの話なんですが」
空になったグラスの縁を指でもてあそびながら、目の前の彼が再び口を開いた。
「さっきの?」
「はい。その、奥さんがあんまりピアノが上手ではない、という」
「ああ……ええ、まあ」
何故そこを蒸し返すのだろう、と少々不快になる。
「ピアノ。聴かせてもらえませんか? 奥さんの」
「は? え……私の?」
「はい、あなたの」
「いや、それはちょっと……。本当に、人様にお聴かせできるようなものじゃないんで……」
母や秋くんとは違って、私の音楽は何も生み出さない。素人に毛が生えた程度のレベルなのだから。
そう拒んでも、彼は何故か食い下がった。
「構いません、それで。あなたの、確かな耳を持ったあなたのピアノが、僕は聴きたいんです」
真剣な眼差しでそんなことを言われ、私は逃げ場を失う。そんなに真っ直ぐ見つめないでほしい。胸が、ざわついて仕方ない。
「わ、わかりました。でも本当に、お聴き苦しいですから」
あらかじめ、そう釘を打っておく。そうでもしないと、勝手に期待されて勝手に落胆されるのがオチだ。
「ありがとうございます」
白いピアノの前に座り、鍵盤蓋を両手で持ち上げると、彼によって綺麗に磨かれた鍵盤が顕になった。思わずため息が漏れる。
突然ピアノを弾いてくれと言われても、私にはさほど弾ける曲のレパートリーが無い。少し悩んだ末、私は子供の頃一番好きだったチャイコフスキーの「花のワルツ」に決めた。前奏は自信がなかったので、いきなりメロディ部分から始めた。一番好きなサビの部分に差し掛かると、思わず「楽しい」と思ってしまった。この華やかなメロディラインが大好きだ。練習が嫌でたまらなかった頃、秋くんが私にこの曲を薦めてくれた。「きっと楽しいよ」と言って。騙されたと思って必死で練習した。秋くんに、聴いてほしかったから。
だけど、私の「花のワルツ」が完成するより早く、秋くんは姿を消してしまった。もう、彼に聴いてもらうことも、褒めてもらうことも叶わない。