はじまりのワルツ
ある程度まで弾くと、私は中途半端なところで演奏をやめた。まだ、最後まで覚えていないのだ。秋くんがいなくなって、私は練習をやめてしまったから。
「……こんな程度ですけど」
後ろを振り返り、ダイニングの椅子に座ったままの彼を見やる。一体どうして私のピアノなんか聴きたがったのだろう? 自分が調律したピアノの出来栄えを確かめたい、とか?
「……素敵な演奏でした、とても」
彼はそんなお世辞を言って、胸元で小さく拍手をくれた。
「いえ、とんでもない。お粗末ですみません……」
そそくさと鍵盤にカバーを掛ける。下手すぎて恥ずかしさが込み上げる。こんなことなら真面目に練習しておけば良かった、と今更後悔してももう遅い。
「いや本当に。花のワルツ、僕も大好きです。弾いているとどんどん楽しくなってくるでしょう?」
彼は椅子から立ち上がると、私のそばまで近付いてきた。そして、鍵盤カバーを捲り、そっと指で鍵盤に触れる。彼の指はすらりと長くて、きっとピアノが上手な人なんだろうと推測できる。
「とても良い演奏でした。あなたの、弾むような気持ちの伝わる」
その言葉はお世辞ではなく、彼の本心であるような気がした。
*****
彼が帰ったその日から、私は練習を始めた。もう一度、「花のワルツ」を練習しようと思い立ったのだ。もう聴いてくれる秋くんはいないけれど、それでも。またあの人が調律に来たら、その時聴いてもらうのも良いかもしれない。
ピアノ調律の専門店「星降堂」の秋月さん、というのが彼の名前だった。
帰り際、私に名刺を渡そうとしていたもののどうやら忘れてきたらしく、星降堂のパンフレットに持っていたボールペンで「秋月」と書き添え、私に手渡した。またいつでもご用命ください、と言って。
ピアノの調律は一年に一度が普通だ。となると、秋月さんに今度会えるのは一年後か……。そう考えると、少し残念な気持ちになる。——いや、何を考えているのだろう、私は。
久しぶりにピアノに触れて、ピアノが好きな人とピアノの話ができて、きっと気持ちが高揚しているだけだ。
「今日ね、ピアノを調律してもらったの」
秋月さんが帰った夜、晩ご飯をとりながら夏芽にそう報告すると、彼はダイニングテーブルに置いたスマホで動画を見ながら「へえ」とだけ言った。報告する義務などないのだが、一応、昼間に来客があったことは伝えておかないと、と思うのは、一応夏芽がこの家の主人であるからだ。つくづく面倒だなと思う。
「いくら?」
スマホから顔を上げないまま、夏芽に問われる。
「え? 何が?」
「だから、調律だよ。いくらしたの、お金」
私は少しムッとする。つまらないものにお金をかけるなと言いたいのか。
「……一万円くらいよ。心配しなくても、生活費からは出してないから」
「別に、そういうことじゃないけどさ」
本当は、一万三千円した。どうせ夏芽に相場などわかるはずがない。それに、本当に生活費には手をつけていない。後がうるさいのはわかっているからだ。
ああ、嫌だ。
せっかくピアノの音が直って、久しぶりに鍵盤にも触れて、秋月さんとピアノの話ができて、良い気分だったのに。今のやりとりで台無しだ。
夏芽と話していても、本当につまらない。
「……こんな程度ですけど」
後ろを振り返り、ダイニングの椅子に座ったままの彼を見やる。一体どうして私のピアノなんか聴きたがったのだろう? 自分が調律したピアノの出来栄えを確かめたい、とか?
「……素敵な演奏でした、とても」
彼はそんなお世辞を言って、胸元で小さく拍手をくれた。
「いえ、とんでもない。お粗末ですみません……」
そそくさと鍵盤にカバーを掛ける。下手すぎて恥ずかしさが込み上げる。こんなことなら真面目に練習しておけば良かった、と今更後悔してももう遅い。
「いや本当に。花のワルツ、僕も大好きです。弾いているとどんどん楽しくなってくるでしょう?」
彼は椅子から立ち上がると、私のそばまで近付いてきた。そして、鍵盤カバーを捲り、そっと指で鍵盤に触れる。彼の指はすらりと長くて、きっとピアノが上手な人なんだろうと推測できる。
「とても良い演奏でした。あなたの、弾むような気持ちの伝わる」
その言葉はお世辞ではなく、彼の本心であるような気がした。
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彼が帰ったその日から、私は練習を始めた。もう一度、「花のワルツ」を練習しようと思い立ったのだ。もう聴いてくれる秋くんはいないけれど、それでも。またあの人が調律に来たら、その時聴いてもらうのも良いかもしれない。
ピアノ調律の専門店「星降堂」の秋月さん、というのが彼の名前だった。
帰り際、私に名刺を渡そうとしていたもののどうやら忘れてきたらしく、星降堂のパンフレットに持っていたボールペンで「秋月」と書き添え、私に手渡した。またいつでもご用命ください、と言って。
ピアノの調律は一年に一度が普通だ。となると、秋月さんに今度会えるのは一年後か……。そう考えると、少し残念な気持ちになる。——いや、何を考えているのだろう、私は。
久しぶりにピアノに触れて、ピアノが好きな人とピアノの話ができて、きっと気持ちが高揚しているだけだ。
「今日ね、ピアノを調律してもらったの」
秋月さんが帰った夜、晩ご飯をとりながら夏芽にそう報告すると、彼はダイニングテーブルに置いたスマホで動画を見ながら「へえ」とだけ言った。報告する義務などないのだが、一応、昼間に来客があったことは伝えておかないと、と思うのは、一応夏芽がこの家の主人であるからだ。つくづく面倒だなと思う。
「いくら?」
スマホから顔を上げないまま、夏芽に問われる。
「え? 何が?」
「だから、調律だよ。いくらしたの、お金」
私は少しムッとする。つまらないものにお金をかけるなと言いたいのか。
「……一万円くらいよ。心配しなくても、生活費からは出してないから」
「別に、そういうことじゃないけどさ」
本当は、一万三千円した。どうせ夏芽に相場などわかるはずがない。それに、本当に生活費には手をつけていない。後がうるさいのはわかっているからだ。
ああ、嫌だ。
せっかくピアノの音が直って、久しぶりに鍵盤にも触れて、秋月さんとピアノの話ができて、良い気分だったのに。今のやりとりで台無しだ。
夏芽と話していても、本当につまらない。