はじまりのワルツ
ピアノの調律からひと月が経ち、私はだいぶ演奏の勘を取り戻しつつある。ブランクは長いものの、毎日続けていれば確実に上達していくのがわかる。誰かと比較することも、誰かの期待に応えることもしなくていい、そんな自由なピアノはとても楽しいと思えた。思い切って、基礎からやり直してみるのもいいかもしれない。
週に三日間あるパートタイムの仕事以外、私は特にやることがない。今はその空いた時間をフルに使って、ピアノを弾いている。昔の私からすれば、考えられない成長だ。
思い立ったので、新しい楽譜を探しに出かけることにした。昔使っていたものは全て実家に置いてきてしまったし、わざわざ取りに戻るのも気がひける。「花のワルツ」と、基礎練習用の楽譜も探してみよう。
バスで二十分程かけて、目当ての楽器店がある繁華街へやって来た。普段は歩いて行ける範囲にある近所のスーパーくらいしか行かないので、久しぶりの買い物に心が弾む。
楽器店は一階に電子ピアノや管楽器が並び、エスカレーターで上がった二階部分が、様々な楽器用の楽譜が並ぶ書籍スペースになっている。ピアノ以外にも、ギターやバイオリンといった弦楽器、フルートやサックスのような管楽器のものもあり、かなり充実している。
「あれ。奥さん?」
ピアノのコーナーでしばらく楽譜を探していると、書籍棚を挟んだ向こう側から突然声をかけられた。顔を上げると、向いからひょろりと背の高い男性がこちらに手を振っている。
「——あ。こんにちは」
秋月さんだ。気の抜けたような笑顔に、思わず胸が鳴る。
「お久しぶりですね。新しい楽譜ですか?」
彼は通路からこちら側へ回り込んできた。
「は、はい。『花のワルツ』が欲しくて。あと基礎練習用に、何かないかなと思いまして」
「なるほど。練習続けてらっしゃるんですね、ワルツ」
「ええ、まあ。ちょっと、この間の演奏が本当にお粗末だったので……。これを機に、もう一度ちゃんと練習しようかと」
そう言うと、秋月さんは笑った。
「お粗末なんかじゃないのに。でも、楽しみです。奥さんのワルツが完成するの」
……それはつまり、完成した暁にはまた聴いてもらえる、ということで良いのだろうか?
私は嬉しさで頬が緩むのを慌てて手で隠し、秋月さんから半歩離れた。彼はそんなことには全く気付いていない様子で、棚に並んだ楽譜の背表紙をパラパラと指で捲っていく。
「——あ。ありました、チャイコフスキーの『花のワルツ』」
その薄い一冊を取り出し、私に手渡してくれる。
「同じ曲でもいろんなバージョンがあるんですけど、これが一番スタンダードかな」
「あ、ありがとうございます」
手渡された楽譜は、本というよりは紙が数枚束になった書類のようなものだ。
「秋月さんは、その、もちろんピアノがお上手なんですよね?」
楽しそうに楽譜を眺める彼に、そう尋ねてみる。
「僕ですか? うーん、まあ音大は出ていますけど。でもピアニストになれるような腕はないですよ」
「でも、きっとお上手な気がします。指がすごく綺麗ですし」
そう言われた秋月さんは、自分の指をまじまじと眺めて「そうかな?」と首を傾げる。何気ない仕草が、ちょっと可愛らしい。
「あ、そうだ。奥さん、基礎練習用の楽譜も探してらっしゃるんですよね?」
「ええ、まあ」
「良かったら、うちの店に来ませんか? 僕が使ってた楽譜がたくさん置いてあるので。あ、その、お古でもよろしければ……ですけど」
思いがけない誘いに、驚いてしまう。
でも、惹かれる。秋月さんが練習した楽譜なら、間違い無い気がする。
「……よろしいんですか?」
私がそう答えると、秋月さんはふにゃりと笑った。
「もちろん。小さな店ですけど、大歓迎ですよ」
週に三日間あるパートタイムの仕事以外、私は特にやることがない。今はその空いた時間をフルに使って、ピアノを弾いている。昔の私からすれば、考えられない成長だ。
思い立ったので、新しい楽譜を探しに出かけることにした。昔使っていたものは全て実家に置いてきてしまったし、わざわざ取りに戻るのも気がひける。「花のワルツ」と、基礎練習用の楽譜も探してみよう。
バスで二十分程かけて、目当ての楽器店がある繁華街へやって来た。普段は歩いて行ける範囲にある近所のスーパーくらいしか行かないので、久しぶりの買い物に心が弾む。
楽器店は一階に電子ピアノや管楽器が並び、エスカレーターで上がった二階部分が、様々な楽器用の楽譜が並ぶ書籍スペースになっている。ピアノ以外にも、ギターやバイオリンといった弦楽器、フルートやサックスのような管楽器のものもあり、かなり充実している。
「あれ。奥さん?」
ピアノのコーナーでしばらく楽譜を探していると、書籍棚を挟んだ向こう側から突然声をかけられた。顔を上げると、向いからひょろりと背の高い男性がこちらに手を振っている。
「——あ。こんにちは」
秋月さんだ。気の抜けたような笑顔に、思わず胸が鳴る。
「お久しぶりですね。新しい楽譜ですか?」
彼は通路からこちら側へ回り込んできた。
「は、はい。『花のワルツ』が欲しくて。あと基礎練習用に、何かないかなと思いまして」
「なるほど。練習続けてらっしゃるんですね、ワルツ」
「ええ、まあ。ちょっと、この間の演奏が本当にお粗末だったので……。これを機に、もう一度ちゃんと練習しようかと」
そう言うと、秋月さんは笑った。
「お粗末なんかじゃないのに。でも、楽しみです。奥さんのワルツが完成するの」
……それはつまり、完成した暁にはまた聴いてもらえる、ということで良いのだろうか?
私は嬉しさで頬が緩むのを慌てて手で隠し、秋月さんから半歩離れた。彼はそんなことには全く気付いていない様子で、棚に並んだ楽譜の背表紙をパラパラと指で捲っていく。
「——あ。ありました、チャイコフスキーの『花のワルツ』」
その薄い一冊を取り出し、私に手渡してくれる。
「同じ曲でもいろんなバージョンがあるんですけど、これが一番スタンダードかな」
「あ、ありがとうございます」
手渡された楽譜は、本というよりは紙が数枚束になった書類のようなものだ。
「秋月さんは、その、もちろんピアノがお上手なんですよね?」
楽しそうに楽譜を眺める彼に、そう尋ねてみる。
「僕ですか? うーん、まあ音大は出ていますけど。でもピアニストになれるような腕はないですよ」
「でも、きっとお上手な気がします。指がすごく綺麗ですし」
そう言われた秋月さんは、自分の指をまじまじと眺めて「そうかな?」と首を傾げる。何気ない仕草が、ちょっと可愛らしい。
「あ、そうだ。奥さん、基礎練習用の楽譜も探してらっしゃるんですよね?」
「ええ、まあ」
「良かったら、うちの店に来ませんか? 僕が使ってた楽譜がたくさん置いてあるので。あ、その、お古でもよろしければ……ですけど」
思いがけない誘いに、驚いてしまう。
でも、惹かれる。秋月さんが練習した楽譜なら、間違い無い気がする。
「……よろしいんですか?」
私がそう答えると、秋月さんはふにゃりと笑った。
「もちろん。小さな店ですけど、大歓迎ですよ」