はじまりのワルツ
ピアノ調律専門店「星降堂」は、楽器店からバスでさらに二駅程離れた場所にある街の、住宅街の中にあった。見た目は小さな倉庫のようで、門扉に掲げられた控えめな看板が、ピアノ教室をしていたころの実家を思い出させる。
星降堂までの道中、秋月さんは自分のことを少しだけ話してくれた。
年齢は私より一回り上の四十一歳で独身。プロのピアニストを目指して音大へ入ったものの、調律の仕事に興味を持ち、卒業するとすぐに調律師になるための専門学校へ通った。今は一日に三軒程度、個人の家を回ってアップライトピアノの調律を行っており、稀にコンサート用にグランドピアノの調律も行うという。星降堂はオーナーの男性と二人で経営しており、店は小さいが、評判は上々だということだ。
「どうぞ。少し散らかってますけど」
そう言うと入口の扉を開け、私を先導するように中へと入っていく。
「お邪魔します……」
店、というよりも工房のようなその空間は、数台のアップライトピアノと、無数の工具類、それにパソコンや紙類でいっぱいだった。
「調律以外にも、修理も受け付けてるんです。あ、そっちのピアノは調律練習用です」
秋月さんが店の中を案内していると、二階から男性が降りてきた。
「アキ? 何だ、出かけたんじゃなかったのか?——と。お客さんか。こりゃ失礼」
秋月さんよりもさらに歳上だろうその人は、恐らくこの店のオーナーか。頭には白いものがかなり混じっている。
「星さん。こちら、この間僕が調律にうかがった上原邸の」
星さん、と呼ばれた男性は、「ああ、例の。上原律子さんだ」と言って穏やかに微笑んだ。
「その節は、ご用命頂きありがとうございました。その後ピアノの調子はいかがですか?」
「こちらこそ、ありがとうございました。秋月さんにしっかり調律して頂いたお陰で、すごく快適です」
「それは良かったです。またよろしくお願いしますね」
「はい! あ、ええと、オーナーさん……ですよね?」
星さんと秋月さんの方を交互に見る。
「はい。オーナー兼秋月の上司の、降谷星司です」
「兼、僕の師匠です。通称『星さん』」
星降堂の二階部分は星さんの住居になっており、秋月さんはその一室を間借りしているとのことだった。
店の中は雑多ではあるものの決して汚いわけではなく、味のある雰囲気と木の香りがして、とても居心地の良い空間だ。秋月さんも星さんもどこか雰囲気が似ている。気さくで自然体で、話していると気持ちが解れる。
店内の奥に設けられた小さな応接スペースで、星さんの淹れてくれた紅茶を飲む。秋月さんは冷たいウーロン茶だ。星さんはお茶を淹れた後、二階へと上がっていった。
「奥さん、これ。僕が昔使っていた楽譜です。基礎練習に丁度良いかなと」
秋月さんは、先程二階から楽譜を数冊持ってきてくれた。どれも使いこまれていて、ページをパラパラと捲るとたくさん書き込みがある。
「少し古くて申し訳ないですが……」
「いえ、とんでもないです。ありがとうございます、すごく嬉しいです。頑張って練習します、私」
そう言うと、秋月さんはまたふにゃりと笑ってくれた。目尻に細かい皺ができる。この人の笑顔は、私を安心させる。
「楽しみにしています。また奥さんのピアノを聴けるの」
誰かのために弾きたい、なんて。
秋くんと離れて以来、私は初めてそんなことを思っている。
星降堂までの道中、秋月さんは自分のことを少しだけ話してくれた。
年齢は私より一回り上の四十一歳で独身。プロのピアニストを目指して音大へ入ったものの、調律の仕事に興味を持ち、卒業するとすぐに調律師になるための専門学校へ通った。今は一日に三軒程度、個人の家を回ってアップライトピアノの調律を行っており、稀にコンサート用にグランドピアノの調律も行うという。星降堂はオーナーの男性と二人で経営しており、店は小さいが、評判は上々だということだ。
「どうぞ。少し散らかってますけど」
そう言うと入口の扉を開け、私を先導するように中へと入っていく。
「お邪魔します……」
店、というよりも工房のようなその空間は、数台のアップライトピアノと、無数の工具類、それにパソコンや紙類でいっぱいだった。
「調律以外にも、修理も受け付けてるんです。あ、そっちのピアノは調律練習用です」
秋月さんが店の中を案内していると、二階から男性が降りてきた。
「アキ? 何だ、出かけたんじゃなかったのか?——と。お客さんか。こりゃ失礼」
秋月さんよりもさらに歳上だろうその人は、恐らくこの店のオーナーか。頭には白いものがかなり混じっている。
「星さん。こちら、この間僕が調律にうかがった上原邸の」
星さん、と呼ばれた男性は、「ああ、例の。上原律子さんだ」と言って穏やかに微笑んだ。
「その節は、ご用命頂きありがとうございました。その後ピアノの調子はいかがですか?」
「こちらこそ、ありがとうございました。秋月さんにしっかり調律して頂いたお陰で、すごく快適です」
「それは良かったです。またよろしくお願いしますね」
「はい! あ、ええと、オーナーさん……ですよね?」
星さんと秋月さんの方を交互に見る。
「はい。オーナー兼秋月の上司の、降谷星司です」
「兼、僕の師匠です。通称『星さん』」
星降堂の二階部分は星さんの住居になっており、秋月さんはその一室を間借りしているとのことだった。
店の中は雑多ではあるものの決して汚いわけではなく、味のある雰囲気と木の香りがして、とても居心地の良い空間だ。秋月さんも星さんもどこか雰囲気が似ている。気さくで自然体で、話していると気持ちが解れる。
店内の奥に設けられた小さな応接スペースで、星さんの淹れてくれた紅茶を飲む。秋月さんは冷たいウーロン茶だ。星さんはお茶を淹れた後、二階へと上がっていった。
「奥さん、これ。僕が昔使っていた楽譜です。基礎練習に丁度良いかなと」
秋月さんは、先程二階から楽譜を数冊持ってきてくれた。どれも使いこまれていて、ページをパラパラと捲るとたくさん書き込みがある。
「少し古くて申し訳ないですが……」
「いえ、とんでもないです。ありがとうございます、すごく嬉しいです。頑張って練習します、私」
そう言うと、秋月さんはまたふにゃりと笑ってくれた。目尻に細かい皺ができる。この人の笑顔は、私を安心させる。
「楽しみにしています。また奥さんのピアノを聴けるの」
誰かのために弾きたい、なんて。
秋くんと離れて以来、私は初めてそんなことを思っている。