それは手から始まる恋でした
まさかのお付き合い?
 高良は忙しい。電話やメールは届くが、彼を見たのは配属された当日のみ。指示は細かく分かりやすいが端的すぎて人間味を感じられない。怒っているのかと不安になるほどだ。若い頃だったら滅入っていただろうが、今の私はこんなことでは動じない。こういう性格なのだと割り切ることにした。

 それにしても、この仕事量を今まで一人でこなしていたなんて信じられない。金曜ということもあり皆早めに仕事を切り上げていたが、私は高良から依頼された仕事を今日中に終わらせなければならず一人会社に残っていた。節電ということで使っていないエリアの電気は切られている。派遣社員として働いていた3年間、こんなに遅くまで残ったことがなかった。でも残った人にしか見ることのできないこの夜景は最高だ。

 ついつい仕事を忘れて窓から東京の夜景を堪能してしまう。窓に手をつきながら遠くの煌めきに癒されていると胸騒ぎがした。振り返ったと同時にスーツ姿の男性が、私に覆いかぶさって窓に手をついた。私は彼の両腕に挟まれながらゆっくりと目線を上げた。トレードマークの銀縁眼鏡がきらりと光る。

 どうしよう。自然と脈が速くなっている。血がどんどんと顔の方に上がっていくのが自分でもよく分かる。

「仕事サボって何をしている」
「い、い、息抜きです。ちょっと目が疲れたので遠くを見ようと」
「そうか。まだ終わりそうにないのか?」

 彼は、私から離れながらも私の手元を見続けている。そんなにこのピンキーリングが気になるのだろうか。

「はい。あと1時間ほどかかりそうです」
「じゃあ、手伝うよ」
「それは悪いです。大丈夫です。一人でできます」

 高良の仕事量は私も知っている。夜中の3時にメールが届いていたりするくらいだ。これ以上、負担をかけるわけにはいかない。

「そっ。なら波野さんが終わるまで俺もここで仕事するか」
「え? 帰っていいですよ。私なんか気にしないで下さい」
「いや、ここで仕事する」

 高良は席に座り、パソコンを立ち上げた。私も席に戻り仕事を再開した。
 シーンと静まり返るオフィスにカタカタと文字を打ち込む音だけがこだまする。10分ほどたっただろうか、高良はいきなり声をかけてきた。

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