それは手から始まる恋でした
「お待たせ。今日で最後なんて寂しいわね。次決まったの?」
「それがなかなか。正社員雇用前提で探すと難しいみたいで」
「それは大変ね。でも波野さんならすぐよ。あら? 高良さんまだ何かある?」
「いえ、大丈夫です」

 彼は総務部の扉を開けて出ていった。三谷さんは私の返却品や書類をチェックして最後にご褒美と言ってチョコレートをくれた。

「きっと大丈夫よ。またいつかどこかで」

 こんな優しいところが、三谷さんが皆から慕われる理由なのだろう。

「ありがとうございます。三谷さんもお元気で」

 少し寂しくなった。たった3年されど3年。中学高校ではあんなに長かった3年間は社会人になるとあっという間だ。けれどその3年間で出会えた素敵な人との別れはやはり寂しい。
 私は総務部を出て歩き出した。すると背後から何やら不穏な気配を感じた。
 ゆっくり後ろに目を向けようとしたその時、まさに私の手に忍び寄ろうとする男の手が見えた。

「な、な、なんですか?」

 振り返り、目線を上げるとそこには高良がいた。

「ご、ゴミがついていたから取ろうとしただけだ」
「どこですか?」
「急に振り返るから見失った。小さなゴミだったからな」
「そうですか。……あの、何ですか?」
「それ、いつもつけているのか?」

 彼は私が左手につけているピンキーリングを指さした。

「ええ」
「じゃあ、あの時の……」

 彼は眉間に皺を寄せた。
 彼は私のことを思い出したのだろうか。振りほどいて逃げたことがそんなに気に障ったのだろうか。
 リングはそんなに高くはないが、期間限定・数量限定のセミオーダー品なので人と滅多に被らない。東京のど真ん中でさえ出会える確率はかなり低いだろう。でも彼がそれを知っているわけがない。ここは誤魔化しておいた方がいい気がする。

「あの時ってなんですか? こんなの皆つけていますよ」
「そうか」

 彼は中指で眼鏡を整えキリっとした顔を作って私を見つめこう続けた。

「名前は?」
波野(なみの)(つむぎ)です」
「自主退職か?」
「いえ、契約切れです。派遣社員だったので今日で最後なんです」
「まだここで働く気はあるか?」
「はい?」
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