それは手から始まる恋でした
「波野さぁん。おはようございまぁす。体調大丈夫ですかぁ?」
「はい」
「あれぇ? 指輪ないですねぇ。もしかして別れたんですかぁ?」

 鮫島さんは鋭い。初めて指輪をつけていった日もこうやってこっそりと私に尋ねてきた。指輪がないのもすぐに気づくほど彼女は私のことに関心を持ってくれているのか。どんな関心であっても今は何となく嬉しい。

 私が笑うと彼女はそれ以上何も聞かずに席に戻った。彼女はこういうところがあるので嫌いにはなれない。暫くすると鮫島さんから一通のメールが届いた。週末にいい男がいるクラブに行かないかとのお誘いだ。私は丁重に断った。

「おはよう」

 高良は私の目も見ずにそう言って自分の席に着いた。目を合わせないこと以外、以前と何も変わっていない。私は高良の席に向かった。

「おはようございます。休んでしまい申し訳ございませんでした」
「ああ、いい。さっさと仕事しろ」

 全く私の目を見る気配がない。
 これでいいのかもしれない。私は期待しすぎていた。高良なら何があろうと私を選んでくれるんじゃないかと心のどこかで思っていたがこれが現実だ。

「これとこれ、纏めといて。今日は戻らない。明日も終日外出だ。よろしく」
「はい」

 高良は私の目を見ずに書類を私の机の上に置いてそのまま外出した。

「最近、高良さんピリピリなんですよぉ。ちょっと優しくなったかなぁって思ってたのにぃ絶対波野さんが休んじゃって仕事が増えちゃったからですよぉ。昨日もぉなんだこのデータは! ってめっちゃキレてぇ大変だったんですからねぇ」
「すみません」

 今日、高良が出社した時オフィスに緊張が走ったのはそういう事だったのか。皆にも迷惑をかけている。いくら仕事ができても人がついてこないと意味がないと社長が言った後から物腰を柔らかくして相手の気持ちに立って話すように頑張っていたのに。 金曜日、高良は出社し会社にいる。高良がいるオフィスはお葬式状態だ。カチカチとキーボードを打つ音だけが聞こえてくる。昨日までの和やかな雰囲気とは正反対だ。当の高良も鬼の形相で仕事をしている。

 指示もメールで事細かく書かれて送られてくる。そんなに私と話がしたくないのだろうか。プライドの高い高良はフラれたことが許せないのかもしれない。

 午後3時、疲れて背伸びしていたらどんより静まり返ったオフィスに花が咲いた。彼女が歩く度にいい香りが辺り一面に広がり、男性陣の顔が緩んでいく。一人だけ鮫島さんがライバルを発見したかのように鋭い目を光らせていた。

「お疲れ様。おやつ持ってきました」

穂乃果さんは、私に目もくれず、高良に声をかけた。

「何で……」
「作りすぎたから休憩にいいかなって思って持ってきちゃった。皆さんの分もありますのでどうぞ」
「ちょっと来い」

 高良は穂乃果さんの腕を引っ張りどこかに消えていった。その時穂乃果さんは私におやつが入った袋を渡してきた。

 なんで私が……。

「誰ですかあの人。高良さんとどういう関係ですか?」

 鮫島さん、普通に話せるんだね。

「その話し方の方が好きですよ」
「何を暢気なこと言ってるんですか。危機ですよ、危機!」
「危機?」
「相手が波野さんなら墓穴掘ってすぐ飽きられると思ってたのにその次はあの美女。あの人だったら私勝てるか分からないじゃないですか」
「鮫島さん……」
「知ってるんでしょ、言わないなら会社に来られなくなるような噂流しますよ」

 怖い。小さい声ながらも迫力がある。

「幼馴染で、その、お互い好きみたい」
「はぁ? 無理。あの人が相手とか絶対無理」

 鮫島さんは一人で落ち込んで席に戻った。あの鮫島さんが無理なら私なんて奇跡が起きても高良とは元に戻れない。って私何考えているんだか。

 気を取り直して穂乃果さんが作ってきてくれたお菓子を部署の皆に配った。皆嬉しそうに受け取り、美味しそうに食べていた。高良は暫くして戻ってきたが私がいる間、穂乃果さんのお菓子に手を伸ばさなかった。

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