悪役だった令嬢の美味しい日記
動けなくなった私は、覚悟の上で目をギュッと瞑った。
――が、一向に衝撃が来なかった。
クラクラする頭でゆっくりと目を開けていくと、見慣れた真っ黒な軍服が目に入った。
剣先に氷魔法を纏わせた見知った背の攻撃は、魔物たちを斬った端から氷漬けにしていく。
繰り出される攻撃から漏れ散った氷の粒に陽の光が反射して、キラキラと彼を輝かせているように見えた。
「消えろ」
誰もが恐れる様な、とてつもなく冷え切った声だった。
たった一言なのに――。
それも魔物を威嚇する声だったのに――。
いつも怖いと思う笑顔と同じ眼をして発せられる声なのに、とてつもない安心が押し寄せてきた。
その安心感に包まれた私は、そのまま意識を手放した。
……焦げている傷口のニオイで、ちょっと焼き肉食べたいな――なんて思いながら。
目を覚ましたのは、討伐から三日目のお昼過ぎ。暑い日差しが傾き、陰になった窓から入ってきたカラッと乾いた海風に誘われるように。看病してくれていたのは、見習いちゃんだった。私の目が覚めると直ぐにジゼルを呼びに行ったけど――来たのは、助けてくれた時に着ていた西公爵家の軍服に身を包んだ殿下だった。討伐実戦の帰りなのか、荒く肩で息をする殿下の額には汗が滲んでいた。
心配そうに覗き込んでくる殿下は、壊れ物でも触るかのようにそっと優しく手を包んでくる。あぁ、私――。
「レティ」
名前を呼ばれるだけで、トクンッと跳ねる心臓の音に焦る。ゲームの強制力を心配する自分と、好きだと確信している相手に呼ばれる嬉しさから。
この時は「ダメ。何が起きるかわからないのに――巻き込みたくはない」という気持ちが勝ったおかげで、大叔母様直伝の笑顔の仮面を被ることが出来た。
「……何でしょうか」
笑顔が逆に無理しているようにでも見えたのか、殿下は一瞬眉をひそめたがすぐに戻し、優しく包まれている手に目を落とした。握られている手の温もりが、私の心を締め付ける。
「……君のリハビリがてら……その二人で、出掛けたいんだけ、ど」
あ、この世界の魔法に治癒魔法はあるけど、傷を塞ぐくらい。失った血は、こっちの増血剤であるレッドポーションを飲まなきゃ増えない。傷は塞げるけど、手足の感覚を戻すにはリハビリが必要だ。魔法薬草国のホスタが頑張ってくれているけど、治癒系魔法でも難しいらしく、ゲームのように万能ではない。地球で言うお医者様の代わりが、治癒魔法なだけかな。だから、医療や薬に携わる人たちは『治癒魔導士』と呼ばれている。
殿下は医療系の勉強もされてるって聞いたことあったから、この時は怪我した足を気にして言い淀んでいたのだと思っていたけど……今思えば、好きな子相手に耳まで真っ赤な殿下が一生懸命誘ってくれていたんだと思う。あの顔を思い出すと、可愛く照れていたなぁと思う。まだゲームを気にしすぎて、全く気づいていなかったけどね。
思えば、助けてくれたあの時には恋に落ちていたのかもしれない。でなければ、いつものように二人で話しているだけだったのに――こんなにドキドキしなかった……と思う。
***
「どうした?」
作ってきたばかりの昼食を並べている手が止まったからか、私がぼーっとしすぎていたからか、眼前に不安そうな顔で覗き込んでる殿下の顔があった――近いわ。お茶の準備に行ってるニナと、なぜかベルナールと一緒に颯爽と西公爵領でデートに行ったアリスがいないためか、やたらと近い。手、私の頬に添える必要ある?
そんな殿下を手で制しながら、手に持ったままだったサーモンのカルパッチョを並べた。西公爵領のサーモンは、夏の活性シーズンを避けて夏前から遡上を始める為、今が旬だったりする。おかげで他の領地より早く手に入るし、他領も合わせると長めに楽しめる。
「いえ、何も。ただ――リハビリに付き合ってくださった時も、西公爵領のサーモン料理をお出ししたな、と」
そう。結局デートには行ったけれど、リハビリと完全に思っていた私の中には、あまり思い出として残らなかった。残っていたのは、やっぱり食べ物の事。リハビリデート後、お礼として振舞ったのが旬だったサーモンのお味噌汁だった……胃の方もリハビリが必要だったから、汁物にしたっけ。寝込んでたしね。
「レティ」
有無を言わせない笑顔と唇にふれる指先から、殿下の体温がじわりと伝わる。どうやら、いつも以上に私の顔は赤いと思う……近すぎるせいよね?
「まっまだ、ふふ二人きりだとしても、口調をかえるのは……」
「じゃあ『リオ』って呼んで」
「はっハードル、上がってません!?」
「お願い」
もうすぐ十八歳になられる殿下の上目遣いでの『お願い』は、成人もしているせいか大人の色気が出始めている。う……その顔は、ズルい。イケメンって、ほんとズルいよね。ゲームで見た殿下よりも、確実に私のどストライクに近づいている殿下に勝てるはずもなく……敗北した私は、頑張るしかなかった。
「ぅ……りっリ、オさ」
「リオ」
「……リ、オ……」
「よくできました」
少し照れながらも、嬉しそうに頭を撫でてくるリオ様。『惚れた方が負け』っていう人がいるけど、アリスのおかげでゲームの強制力は多分ないと考え出した私は、本当に負けているのかもしれない。リオ様に「男性としても好きになっていけたら」なんて、宣言しなければ……よかったわ。もう落ちてるよね、レティシア。暫く、内緒にしてよう――殿下には、表情でバレてそうな気もするけど。
あ、ついにルシールさんが産休入ります。お世話になってる人のおめでたって、すごく嬉しいよね! おかげで、今後ろに交代要員として護衛についてるのが、ゲーム内とは印象の違うアランくんだけど。よくこの場で、ニナみたいに無表情で立っていられるよね。すごいわ……。あ、私の護衛になりたいと一生懸命のクロエは、例の新人討伐に行ってるよ……豚汁事件から懐かれてしまった騎士科生たちと、何故か目覚めた?ダメダメ先生も付いて行ってる。なんで?
アランくんは、私の一つ上だから一緒に学院に行く分にはいいんだろうと思う。どうせ学院内には、豚汁騎士科生やそもそも現役騎士である先生方だっているし。行き帰りも殿下が迎えに来るので、強制的に一人じゃないし? 警備面では、すごく安全だと思う……専属侍女もクロエと競い合って、何故か護身術万全だし。
本当に何が起きても万全な体制になりつつあるので、もう安心してあの『乙女ゲーム』について忘れることになった。というか、頭の奥底にしまって、料理に熱中してるほうが楽しかったからだけど。え? 「ここ、楽しいっすね!」って、ダメダメ先生が言い出した? 西公爵家の対魔物用海兵隊に染まってんじゃん!?
――が、一向に衝撃が来なかった。
クラクラする頭でゆっくりと目を開けていくと、見慣れた真っ黒な軍服が目に入った。
剣先に氷魔法を纏わせた見知った背の攻撃は、魔物たちを斬った端から氷漬けにしていく。
繰り出される攻撃から漏れ散った氷の粒に陽の光が反射して、キラキラと彼を輝かせているように見えた。
「消えろ」
誰もが恐れる様な、とてつもなく冷え切った声だった。
たった一言なのに――。
それも魔物を威嚇する声だったのに――。
いつも怖いと思う笑顔と同じ眼をして発せられる声なのに、とてつもない安心が押し寄せてきた。
その安心感に包まれた私は、そのまま意識を手放した。
……焦げている傷口のニオイで、ちょっと焼き肉食べたいな――なんて思いながら。
目を覚ましたのは、討伐から三日目のお昼過ぎ。暑い日差しが傾き、陰になった窓から入ってきたカラッと乾いた海風に誘われるように。看病してくれていたのは、見習いちゃんだった。私の目が覚めると直ぐにジゼルを呼びに行ったけど――来たのは、助けてくれた時に着ていた西公爵家の軍服に身を包んだ殿下だった。討伐実戦の帰りなのか、荒く肩で息をする殿下の額には汗が滲んでいた。
心配そうに覗き込んでくる殿下は、壊れ物でも触るかのようにそっと優しく手を包んでくる。あぁ、私――。
「レティ」
名前を呼ばれるだけで、トクンッと跳ねる心臓の音に焦る。ゲームの強制力を心配する自分と、好きだと確信している相手に呼ばれる嬉しさから。
この時は「ダメ。何が起きるかわからないのに――巻き込みたくはない」という気持ちが勝ったおかげで、大叔母様直伝の笑顔の仮面を被ることが出来た。
「……何でしょうか」
笑顔が逆に無理しているようにでも見えたのか、殿下は一瞬眉をひそめたがすぐに戻し、優しく包まれている手に目を落とした。握られている手の温もりが、私の心を締め付ける。
「……君のリハビリがてら……その二人で、出掛けたいんだけ、ど」
あ、この世界の魔法に治癒魔法はあるけど、傷を塞ぐくらい。失った血は、こっちの増血剤であるレッドポーションを飲まなきゃ増えない。傷は塞げるけど、手足の感覚を戻すにはリハビリが必要だ。魔法薬草国のホスタが頑張ってくれているけど、治癒系魔法でも難しいらしく、ゲームのように万能ではない。地球で言うお医者様の代わりが、治癒魔法なだけかな。だから、医療や薬に携わる人たちは『治癒魔導士』と呼ばれている。
殿下は医療系の勉強もされてるって聞いたことあったから、この時は怪我した足を気にして言い淀んでいたのだと思っていたけど……今思えば、好きな子相手に耳まで真っ赤な殿下が一生懸命誘ってくれていたんだと思う。あの顔を思い出すと、可愛く照れていたなぁと思う。まだゲームを気にしすぎて、全く気づいていなかったけどね。
思えば、助けてくれたあの時には恋に落ちていたのかもしれない。でなければ、いつものように二人で話しているだけだったのに――こんなにドキドキしなかった……と思う。
***
「どうした?」
作ってきたばかりの昼食を並べている手が止まったからか、私がぼーっとしすぎていたからか、眼前に不安そうな顔で覗き込んでる殿下の顔があった――近いわ。お茶の準備に行ってるニナと、なぜかベルナールと一緒に颯爽と西公爵領でデートに行ったアリスがいないためか、やたらと近い。手、私の頬に添える必要ある?
そんな殿下を手で制しながら、手に持ったままだったサーモンのカルパッチョを並べた。西公爵領のサーモンは、夏の活性シーズンを避けて夏前から遡上を始める為、今が旬だったりする。おかげで他の領地より早く手に入るし、他領も合わせると長めに楽しめる。
「いえ、何も。ただ――リハビリに付き合ってくださった時も、西公爵領のサーモン料理をお出ししたな、と」
そう。結局デートには行ったけれど、リハビリと完全に思っていた私の中には、あまり思い出として残らなかった。残っていたのは、やっぱり食べ物の事。リハビリデート後、お礼として振舞ったのが旬だったサーモンのお味噌汁だった……胃の方もリハビリが必要だったから、汁物にしたっけ。寝込んでたしね。
「レティ」
有無を言わせない笑顔と唇にふれる指先から、殿下の体温がじわりと伝わる。どうやら、いつも以上に私の顔は赤いと思う……近すぎるせいよね?
「まっまだ、ふふ二人きりだとしても、口調をかえるのは……」
「じゃあ『リオ』って呼んで」
「はっハードル、上がってません!?」
「お願い」
もうすぐ十八歳になられる殿下の上目遣いでの『お願い』は、成人もしているせいか大人の色気が出始めている。う……その顔は、ズルい。イケメンって、ほんとズルいよね。ゲームで見た殿下よりも、確実に私のどストライクに近づいている殿下に勝てるはずもなく……敗北した私は、頑張るしかなかった。
「ぅ……りっリ、オさ」
「リオ」
「……リ、オ……」
「よくできました」
少し照れながらも、嬉しそうに頭を撫でてくるリオ様。『惚れた方が負け』っていう人がいるけど、アリスのおかげでゲームの強制力は多分ないと考え出した私は、本当に負けているのかもしれない。リオ様に「男性としても好きになっていけたら」なんて、宣言しなければ……よかったわ。もう落ちてるよね、レティシア。暫く、内緒にしてよう――殿下には、表情でバレてそうな気もするけど。
あ、ついにルシールさんが産休入ります。お世話になってる人のおめでたって、すごく嬉しいよね! おかげで、今後ろに交代要員として護衛についてるのが、ゲーム内とは印象の違うアランくんだけど。よくこの場で、ニナみたいに無表情で立っていられるよね。すごいわ……。あ、私の護衛になりたいと一生懸命のクロエは、例の新人討伐に行ってるよ……豚汁事件から懐かれてしまった騎士科生たちと、何故か目覚めた?ダメダメ先生も付いて行ってる。なんで?
アランくんは、私の一つ上だから一緒に学院に行く分にはいいんだろうと思う。どうせ学院内には、豚汁騎士科生やそもそも現役騎士である先生方だっているし。行き帰りも殿下が迎えに来るので、強制的に一人じゃないし? 警備面では、すごく安全だと思う……専属侍女もクロエと競い合って、何故か護身術万全だし。
本当に何が起きても万全な体制になりつつあるので、もう安心してあの『乙女ゲーム』について忘れることになった。というか、頭の奥底にしまって、料理に熱中してるほうが楽しかったからだけど。え? 「ここ、楽しいっすね!」って、ダメダメ先生が言い出した? 西公爵家の対魔物用海兵隊に染まってんじゃん!?