指輪を外したら、さようなら。
1.似ていて異なるもの
「相川! 三番にプラスホームの松方さん」
隣のブースから聞き慣れた声。
またか。
打合せ中の楓ちゃんに少し待つように言って、自分のデスクに戻る。
そして、「ありがとうございます」と姿の見えない隣人に礼を言って受話器を取った。
「お待たせいたしました、相川です」
『プラスホームの松方です』
「お世話になっています。すみません、また間違えてしまったようで」
『いえ。僕もちゃんと言わなかったので』
本当に、少しも気にしていないような穏やかな声。
「いつも申し訳ないです」
『気にしないでください。ところで、昨日発注のあったリビングドアの事なんですけど――』
電話の取次ぎ間違いには、慣れた。
いや、慣れてはいけないのだけれど。
ほぼ毎日のように間違えられるので、いちいち間違えた人に注意する気にもならない。
「では、よろしくお願いします。失礼致します」
受話器を置くと、使用中を示す三番のランプが消えた。
「相川、悪い。山田が間違えた」
またも、隣のブースから声が飛んできた。
「すみません!」と、山田さんの声。
「気を付けてねー」と、私も少し声を張ってパーテーション越しに言葉を返した。
「はい」
視線を感じて振り返ると、長谷部課長がクククッと含み笑いしていた。
「課長! 笑ってないで隣と番号を分けるように掛け合ってくださいよ!」
「そうしてやりたいのはやまやまなんだけどなぁ。番号変えると取引先に伝える手間もあるしなぁ」と、課長は頬杖をついて気のない返事をした。
面長で彫りの深い、時々阿〇寛に似ていると言われるらしい課長は、豊な黒髪をオールバックにして『デキる男』を演出している。
実際、仕事はデキるのだが、管理職である課長が直接案件をもつ機会はそうなく、最近は部下からの報告を受け、アドバイスをする程度。その他はこうして課内を見渡して過ごしている。
四十歳でバツイチ、上司ぶらない、正確には上司らしくない物腰は、一部の女子社員に人気らしい。
だが、私は知っている。
ズボラで面倒臭がりで、へらへらしてやり過ごしているだけだということを。
私が憧れた、昔のデキる課長が懐かしい。
「取次ぎ間違いが多いのも、取引先に失礼じゃないですか」
「確かになぁ。けど、この状況がいつまで続くかもわからないしな」
「それって――」
「相川が結婚して名字が変われば、問題解決だろ」
三度、パーテーション越しに声。
「ハラスメントですよ、有川さん!」
「はいはい。すんません」
パーテーションのこっちからもあっちからも笑いが起こる。
毎日のように繰り返されるこの会話の原因は、名前。
私、相川千尋は、トラスト不動産ホームデザイン部インテリアデザイン課主任。
一方、パーテーションを挟んで隣のブースは、ホームデザイン部設計課。主任はさっきのハラスメント発言をした、有川比呂。
笑っちゃうほど似ている名前だが、私にはまったく笑えない。
忙しい中で電話を受けると、区別がつかない。更に、うちの会社は部毎に電話番号が割り振られていて、私宛の電話を設計課で受けることもあれば、有川主任宛の電話をデザイン課で受けることもある。
決定的に違うのは、男女であること。
だから、電話に出た途端に違うとわかる。
付き合いの長い取引先には、声を聞いただけで『ハズレです』なんて笑われたりする。こういう場合は大抵が、面白がってわざと課を伝えなかったりしているけれど。
とにかく、この名前のせいで迷惑をしている。
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