指輪を外したら、さようなら。
「ええ。比呂をあなたから解放してあげたっていう、自己満足。いいことをした気分」

「なるほど、ね」

「私から聞いてもいいですか?」

「どうぞ?」と言って、美幸さんはカップを口に運んだ。

「比呂と同じお墓に入る覚悟で、離婚はしないと言い張ってきたんですか?」

「お墓?」

「はい」

「考えてもみなかったわね」

 美幸さんは微笑む。

「なら、考えたらいいと思います。例えば、あなたが今、この場で急死したら、比呂の妻として葬式をして、比呂の妻としてお墓に入りますよね? あなたが比呂じゃない誰かを愛していたなんて誰にも知られることなく、です。あなたのお相手は、比呂の妻であるあなたを見送ることになる」

「何が言いたいの?」

「私があなたに比呂との離婚を望むのは、比呂が死んだ時、私の夫ではなくても、せめて誰の夫でもなければいいなと思うからです」

「複雑ね」

「いえ? 要は『私のものじゃなくていいから、誰のものにもならないで』ってことです」

「なるほど」

「あなたは、そう思いませんか?」

「……」

 美幸さんは黙って、ミルクティーをすすっていた。

 私も、コーヒーをすすった。

 広々としたホテルのカフェに、客が私たちの他に五組だけなのは、夕食時だからだろう。

 きっと、レストランは賑わっているはず。

 亘から身を隠すために選んだこのホテルは、平日の宿泊費が安く、レストランは美味しいと評判だった。さすがに女一人でホテルディナーを楽しむ度胸も、気持ちの余裕もなく、私は味わえそうにないが。

 とにかく、客が少ないお陰で、私はラッキーチャンスを見逃さなかった。

「龍也!」

 カフェの前を通り過ぎようとした龍也の姿を見て、私は瞬時に立ち上がった。

 名前を呼ばれて、龍也が辺りを見回し、私は軽く手を挙げて居場所を知らせた。

「千尋?」

 龍也がカフェに入って来る。

「もうっ! 遅い!!」

 私はテーブルを離れ、龍也に駆け寄った。そして、龍也の腕に私の腕を絡ませ、わざとらしく胸を押し付けるように寄り添った。

「千尋? なに――」

「――お願い! 話を合わせて」

 私は龍也の腕を引いて小声で言うと、そのまま美幸さんのそばに引っ張って行く。

「私の見返り、です」

「え?」

「この人と結婚するためには、比呂とはきれいさっぱり別れたいんです」

「けっ――」

 話が飲み込めない龍也の口を塞ぐように、私は美幸さんから見えない龍也の背中をギュッとつねった。龍也は口を閉じ、私の顔と、美幸さんの顔と、テーブルの上の念書を見比べる。
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