指輪を外したら、さようなら。
「これで、あの家私にちょうだい」
「家?」
「そ。修が家を出るなら、他に部屋を借りるよりあの家で暮らす方が楽でしょ。由麻ちゃんと恵麻ちゃんも、一軒家暮らしからマンション暮らしじゃ、落ち着かないだろうし」
「誰が由麻と恵麻を渡すって言ったのよ!」と、忍がまたも声を荒げる。
「お前のしていることは、立派な育児放棄だ! 証拠もある。毎晩のように親に預けて不倫を繰り返している証拠だ。参観日すら忘れて、真昼間からホストとホテルにいる母親なんて、あの子たちには必要ない。血の繋がりなど関係ない。あの子たちは俺が育てる」
「嫌よ! 絶対に別れないわ!」
そう叫ぶと、忍は事務所を飛び出して行った。
急に、空気が静まり返る。
「今まで――」と、東山がため息交じりに言った。
「――血の繋がらない娘たちとどう接していいかわからず、かといって、あんな母親の元に置いて家を出ることも出来ずにいたが、ようやく覚悟を決めたよ。たとえ俺の子じゃなくても、二人は俺が引き取って育てる」
妻の不倫相手ではあるものの、彼には同情してしまう。
「有川さん」
東山は立ち上がり、腰を九十度に折った。
「美幸を許してくださいとは言えません。彼女を追い詰めたのは俺ですから。ですから、本当に勝手なお願いなのは承知の上で、お願いします。美幸のしたことを、美幸の両親に告げるのだけはしないでください」
「……修」
美幸の、両親に対するいい子ぶりは異常なほどで、何か事情がありそうだとは察していた。詮索されたくないという美幸の無言の訴えに、聞くことはなかったが。
東山の様子からして、事情があるのは事実で、彼はそれを知っているようだ。
「離婚が成立すれば、それでいいので」
そう言って、俺は立ち上がった。
「俺の両親には、互いに他に好きな人ができたから離婚する、としか話していません。今後も、それ以上のことを話すつもりもありません。今後、美幸の実家と関わることもありませんし」
「――ありがとうございます!」
結局、俺は最初から美幸にとってお遊びでお飾りの男だった。
ま、俺も俺、か。
厄介ごとを避けて、美幸の実家との事情を知ろうともしなかった。
その程度だったということだ。
美幸から返された通帳と印鑑を鞄にしまい、テーブルを離れる。
「家の名義変更やなんかは、郵送で頼む」
「わかったわ」
「今から届を出しに行くから、今日付で他人だ」
「ええ。あ! 待って」
ガタンッと立ち上がると、美幸はバッグから茶封筒を取り出した。
「これは、あなたが持っているものと一緒に破棄して」
茶封筒から三つ折りの紙を取り出し、開く。もう一枚の、念書。
「私、彼女に言ったのよ。『比呂と別れて、比呂の前から永久に姿を消すと約束してくれたら、離婚して比呂を解放してあげる』って。そうしたら、コレ。あなたに飽きたから別れるなんて悪ぶって言ってたけど、嘘がバレバレよ。あの人、愛人には向いてないわ」
「俺も、そう思う」
俺は乱暴に念書を鞄に押し込む。
「じゃ、な」
僅かな時間でも愛し、妻となった女性だが、俺はそんなあっさりとした別れの言葉を残して、背を向けた。
千尋に話したら、薄情だと言われそうだが、今の俺には千尋以外どうでもいい。
一刻も早く離婚届を提出し、一刻も早く千尋を見つけ出したかった。
東山のオフィスを出ると、雪がちらほらと降り出していた。
指輪を外した薬指に冷たくて柔らかな雪の結晶が舞い降りて、溶けた。
寒くてかなわない。
俺は最寄りの区役所への道を、全力で走った。