指輪を外したら、さようなら。
なんとなく、察しがついた。
長谷部課長は、やっぱり、と思っているのかもしれない。
「当時の私は、彼女とは一回りも年が離れている上に、妻がいた。政略結婚で、形だけの妻だったが、私は確かに既婚者だった。彼女もそれを知った上で、私のそばにいてくれました」
話を聞きながら、思った。
副社長の言う『彼女』が千尋の母親ならば、恐らく副社長が千尋の父親。だが、千尋はそれを知らない。
続く話の重要性に、俺は息を飲んだ。
「私は妻と離婚し、彼女と一緒になりたかったが、社長だった父が体調を崩した時、私を社長に推す声が上がり、焦った昭一が彼女を強引に自分の秘書にし、私から奪おうとしました」
亘の、千尋の母親が自分の父親の秘書であった、という話と繋がった。
「私は大河内観光を辞めて、彼女と共に土地を移ろうとしましたが、そうするより先に彼女から別れを告げられ、会社も辞めた彼女は『私の好きなホテルを守って欲しい』という言葉を残して、消えてしまった」
俺と千尋の状況にそっくりじゃないか――。
今、目の前で過去を語る男が、三十数年後の俺の姿かと思うと、ゾッとした。
「私は後継者候補から降り、離婚し、彼女を探しました。実家にいると突き止めて、プロポーズもしたけれど、断られてしまいました」
背筋に汗が伝う。
千尋を探し出し、プロポーズをしても、断られたらなんて考えたくもない。
「彼女が私を拒んだのは、彼女の家族が理由でした。自分がいては、私の将来の枷になると。私には些末な問題でしたが、彼女は頑なに私を拒んだ。ほどなくして彼女は実家を出て、私はまた彼女を見失ってしまいました。それでも、私は彼女を忘れたことはなかったし、探し続けました。札幌にいる彼女を見つけるのに時間はかからなかったけれど、彼女は変わらず私を拒んだ。それでも、どうしても彼女を諦めきれない私は、今で言うストーカーのように彼女の元に通い、彼女に娘がいると知りました。娘が……私の子であることは明らかでしたが、彼女は認めなかった。もちろん、会わせてももらえませんでした」
副社長は、ハハハ、と自虐的な笑みを浮かべたが、俺も課長も笑う気にはなれなかった。
副社長の、千尋の母親への狂気にも似た愛情の深さに、俺はますます自分を重ねた。
「十数年して、父の引退が決まり、副社長をしていた昭一の社長就任に再び不満の声が上がっていた最中、彼女は大河内観光に戻ってきました。昭一の秘書として。昭一が彼女に何らかの脅迫か取引を持ち掛けたことは明白だった。彼女は認めませんでしたが。……昭一は社長となり、私は専務として昭一を補佐してきた。そうすることで、彼女が守りたいホテルと、彼女自身を守れると信じていたからです」
副社長はコーヒーを口に含み、僅かに眉をひそめ、立ち上がった。
「すみません。長話のせいでコーヒーがすっかり冷めてしまった。新しいのをお持ちしましょう」
「えっ? あ、いえ――」
返事をするより先に、副社長は備え付けの電話でホットコーヒーを三つ持ってくるように伝えた。
十分ほどでドアがノックされ、若い女性のホテルスタッフがコーヒーを運んできた。少し緊張気味にカップを入れ替える。カチャッと音がする度、女性は唇を噛んでいた。
先ほどの副社長は、ほぼ全く音をたてずにカップを扱っていた。
「し、失礼します……」と、女性が今にも泣きそうなか細い声で言った。
直角に腰を折った彼女に、副社長は優しく微笑む。
「ありがとう」