指輪を外したら、さようなら。
「帯広は雪が少ないな。これなら、十五分後には店につきそ――」
言い終わるか終わらないかで、すれ違った男性に、スマホを持つ手がぶつかった。
謝罪して、スマホを見ると、ホーム画面に戻っていた。
店に着いたのは、十分後。
無意識に急いていたようで、真冬にもかかわらず背中は汗で湿っていた。
六花○店内のカフェに入り、窓際の席に座って、ホットコーヒーを注文する。届けられる前に、水を一杯飲み干した。
昼少し前とあって、俺の後に続けて何組かのカップルや夫婦、女子会と思しきグループが入店した。
ざわめく店内でコーヒーをすすりながら、窓の外に目を向けた。
千尋……。
昨夜、『近々千鶴にプロポーズを――』と言っていた勇氏は、俺が翌朝、朝一の電車で帯広に向かうと伝えると、『それは、後れを取るわけにいきませんね』と微笑み、その場で車の手配をした。
さすがに、今の今から行く気かと俺も長谷部課長も驚いた。
だが、勇氏は、『昔も、こうして夜遅くに車を走らせたことがあったんです』と言った。『さすがに今は自分の運転では不安しかないので、部下に頼みますが』とも言って、笑った。
『きみが来るまでに、千鶴を説得できないと、きみに合わせる顔がないな』なんて言いながら、勇氏は黒塗りのセダンに乗り込んだ。
両親の過去や、自分の出生の秘密を知って、千尋はどう思っただろう。
一部、俺との関係を重ねて、思うことがあればいい。
そうして、俺の元に駆け付けてくれたら……。
「サ○サクパイを四つと――」
隣のテーブルで注文を復唱した店員の声にハッとして、スマホを見た。
店に入ってから二十分が過ぎていた。
俺は店員を呼び、サクサク○イを二つと、コーヒーのお代わりを注文した。
五分もしないでパイが運ばれてくる。
俺は二つのパイを眺めながら、ひたすら千尋を待った。
十分、三十分、四十五分……。
そもそも、千尋の実家がここからどれほどの距離にあるのかも知らないから、早いとも遅いともわからず、じっと待つ。
さすがに一時間にコーヒーを三杯も飲むとトイレに行きたくなり、俺は店員にその旨を伝えて席を立った。
あと何杯コーヒーを飲んで、あと何回トイレに立つことになるか。
俺は鏡の前で襟を正し、トイレを出た。そして、目を疑った。
二つのパイの前で、俯く女。
千尋――――。
俺はわざと彼女の背後に回り込むように、静かに近づいた。
「三時間経ってないじゃない……」
そう言った彼女の声が震えている。
よく見ると、走って来たのか肩を上下させて呼吸を整えているよう。
「なんなのよ、もうっ――!」
キレ気味にパイに手を伸ばした千尋は、それを自分の口に運び、俺はその手を掴んで、自分の口に入れた。
噛むと、サクッと気持ちのいい音がした。
「マジでサクサクしてんな」
噛んだ拍子に、生地がポロポロと千尋の肩に散り、俺はパイを味わいながらそっと払った。
「これ食えないとか、一生お前を恨むとこだった」
首を回して俺を見上げる千尋は、真っ赤な顔で、大きく見開いた瞳に大粒の涙を浮かべている。眉をひそめ、唇を震わせ、まつ毛が小刻みに揺れる。
「久し振り」
俺は、抱き締めたい衝動を抑え、笑って見せた。
「なに、飲む?」