指輪を外したら、さようなら。
彼女の正面、元いた席に座ると、千尋がズズッと鼻をすすり、おしぼりで涙を拭った。
それから、汗をかききった俺の水のグラスを掴むと、一気に飲み干した。
「何しに来たのよ」
憮然とした表情に、一瞬前の弱々しい彼女が嘘のようだ。
「指輪、まだしてんじゃない」
「ああ、これ」と、俺は右の親指と人差し指で、左手の薬指を撫でた。
それから、左手を広げて彼女の前に差し出す。
「奥さん、まだ離婚に――」
千尋が俺の左手を見つめ、言葉を飲んだ。
「――違う……指輪?」
「ああ」
今の俺の左手の薬指を占拠している指輪は、美幸との結婚指輪とは違う物。
細身で捻りのあった前のものとは全く違う、あれよりも幅のあるスクエアタイプ。
俺はジャケットのポケットからお決まりの、真っ白なベルベットの箱を出すと、蓋を開け、千尋に向けて置いた。
千尋はさっきよりもさらに大きく目を見開き、指輪を見つめる。
「指輪をしている俺を、愛しているんだろう?」
「なに、言って――」
「――離婚は成立した。一千万も渡した。まぁ、自宅の権利と交換したから、結局戻って来たけど」
あの後、祖母ちゃんに一千万を返すと口座番号を聞こうとしたら、『結婚祝いにあげるから、早く新しいお嫁さんを連れておいで』と言われた。
迷ったが、俺はその金で住宅ローンを返済した。
「――ってわけで、結婚しよう」
もっと、緊張するかと思った。
いや、緊張はしてる。しているけれど、不安はない。
千尋の姿を見た瞬間、不安は消えた。
「もう二度と、指輪を外すことはしない」
「……っ」
「だから、二度と俺から離れるな」
「えら……そうに――」
彼女が俯いた瞬間、雫が垂直に落ちたのが見えた。
ひそひそと、けれど興奮気味に話す女性の声がして、俺はちらりと視線を向けた。
すっかりパイを食べ終えた隣のテーブルの女性四人が、顔を寄せて俺の方を見ている。
他人のプロポーズの場に居合わせるなんて、それは珍しいことに違いない。
「断られたら……どうすんのよ。指輪、無駄になるじゃない」
「そしたら、次の女に渡すだけだ」
「なっ――! さいっ――」
「――ここで俺を拒むってことは、そういうことだぞ?」
顔を上げた千尋の頬は涙で湿っていた。が、俺の言葉で涙も止まったよう。
「言っただろ? 俺は、お前をお前の母親のようにはしたくないし、俺自身、お前の父親のようになる気もない。二人を否定する気はないが、俺には無理だ。ここでお前に振られたら、寂しくて適当な女に引っ掛かって、この指輪を渡すかもな」
「脅し?」
「限りなく事実に近い予想だ」
千尋が、ギュッと口を結ぶ。
「もし、そうなっても、俺はきっとお前を忘れられないだろうな。指輪を見ては思い出すと思う。相手の女には悪いけど、その分、贖罪の気持ちを込めて大事にするさ。子供が生まれたら、子供も」
「こ……ども……?」
「ああ」