指輪を外したら、さようなら。
俺は、千尋の飲み物を聞くつもりでタイミングを見計らっていた店員に声をかけた。
「コーヒーでいいか?」
「あ、えっと、オレンジジュースで……」
「それを二つください」
「かしこまりました」
空のコーヒーカップを持って、店員が厨房に下がった。
「珍しいな、オレンジジュースとか」
「……なんか……さっぱりしたものが――」
「――妊娠してるから?」
「え――」
明らかに動揺した表情。
「――悪阻、だろ?」
「ばかなこと――」
早くなる瞬き。
「――お前を迎えに行った飲み会の夜から、一週間もセックス出来なかった日、ないだろ」
「はっ!?」
「あの夜、避妊しなかった」
「なっ――!」
酔った千尋は憶えていない。
酒に飲まれて、俺を愛してると言ったこと。
その言葉に、ゴムを着ける間も惜しくて繋がったこと。
何度も。
あれから、大河内亘の一件があってバタバタはしていたが、千尋が生理だからとセックスを拒むことがなかったのは事実。
千尋は、妊娠している。
妊娠、していて欲しい――。
「俺の子だ」
「してない……。妊娠なんて――」
「――じゃあ、証明してみろ」
「なにを――」
「――今から俺に抱かれろよ」
「――――っ!」
歯を食いしばって俺を睨みつけているのが、証明だ。
妊娠初期のセックスは流産の原因になる可能性があることは、妊娠の経験がなくてもわかることだ。
「産んでくれるよな?」
「比呂の子じゃ……ない」
「は?」
今度はこっちが面食らった。
「比呂の子じゃないわ」
「お前、この期に及んで――」
「――本当だもの!」
売り言葉に買い言葉、と言えるほど軽い話題じゃない。
俺は大きく深呼吸をした。
しなければ、場所も考えず、千尋の体調も考えず、怒鳴り散らしてしまいそうだったから。
『そうまでして、俺を拒むのか!』と。
店員がオレンジジュースを俺と千尋の前に置く。すかさず、千尋が喉に流し込んだ。
「相手の男は? 結婚するのか?」
なんて、バカげた質問。
「しないわ。子供だって――」
「――産んでくれ」
「は? だからっ! 比呂の子じゃないって――」
「――産んで、俺にくれ」
「――――っ! 何言ってんのよ! バカじゃないの?!」
俺より先に声を荒げたのは、千尋。
もちろん、そう仕向けたのだが。
俺は残った半分のパイを頬張った。
もう一つのパイの皿を千尋の前に置く。
ゆっくり噛んで、オレンジジュースで口の中のパイ生地を飲み込んだ。
「俺の子じゃなくてもいい。千尋がいらないなら、俺が育てる。俺の子だと思って、大事にするよ」
「意味が……わからないわ。不倫だとしても、二股かけてた女の子供なんて、憎いだけじゃない」
「女の子なら、千尋に似て可愛いだろうな。気が強くて、だけど優しい女の子になる。ああ、血の繋がりがないのなら育てたその子と結婚するのもいいな。お前の身代わりにする」
「頭、おかしいんじゃない?」
千尋が、心底軽蔑した目で俺を見る。
俺だって、こんな薄気味悪いことを言いたくはない。
千尋のお腹の子供が俺の子なのは、間違いないのだから。
だが、千尋がそれを認めない以上、茶番は続く。
「男なら、父親に嫉妬して殴っちまうかもな?」
「いい加減にして!」
「それはこっちのセリフだ! いい加減に諦めろ」